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756 :人間七七四年[sage]:2011/07/30(土) 00:43:31.33 ID:7+lODW8M - 南宋代にも「鉄砲」は造られてるけど、呼び方が異なるだけで「鉄火砲」と同じ『景定建康志』
元末から「砲」や「銃」が大砲や鉄砲の呼称に使われるようになり『元史の巻188』『続資治通鑑の巻211』 1377年に平陽衛で製造された鋳鉄大砲の「鉄砲」が出土していて、これには銘文が掘られている
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100 :人間七七四年[sage]:2011/07/30(土) 01:29:18.01 ID:7+lODW8M - >>95
古代中国も古代ギリシャも国民皆兵、というか原始社会や都市国家は基本皆兵 匈奴も突厥もウイグルも吐蕃も西夏も契丹も女真もモンゴルも皆兵
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101 :人間七七四年[sage]:2011/07/30(土) 01:32:15.93 ID:7+lODW8M - >>17
軍記物準拠なのは藤本も同じなわけだから >>16の方が藤本よりマシというか余程説得力あるね 正面攻撃説とか研究者のくせにバカじゃねーの、と思うわ
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758 :人間七七四年[sage]:2011/07/30(土) 02:51:59.82 ID:7+lODW8M - 『中国古代火薬火器史』をまんま受け売りしただけで確認してないけど
元史(4303ページ←元本の説明無し)と続資治通鑑(5906ページ←同じく)はここので確認出来るはず? http://lib.ecit.edu.cn/guoxue/ ただ、どうも抜粋文は原文のままじゃなく多少現代語訳してる気が 元史からの抜粋文が「不一会、山上旗動、于是火炮斉発、伏兵従城外衝殺出来、斬殺敵陣〜」で 著者はここで言う火砲は管状火器だろうと述べてる 同じく続資治通鑑から「以火銃撃退其兵、随樹木柵」で、こちらは字のまんま 『景定建康志の巻39』の抜粋文は「両年零三个月時間之内,共創造、添修火器63754件,其中新創造火器38359件, 計有:十斤重鉄炮殻四只,七斤重鉄炮殻八只,六斤重鉄炮殻一百只,五斤重鉄炮殻一万三千一百零四只, 三斤重鉄炮殻二万二千零四十四只, 火弓箭一千只,火弩箭一千只, 突火筒三百三十三个〜以下長いので省略」 「鉄砲」(鉄砲ではなく鋳鉄製大砲)に関しては銘文が書かれてないけど、明代の火砲火器の多くに 製造者が製造時期・兵器名・製造施設その他の銘が彫られているそうなので 間違えようは無いのかなと思う。一応、『文物1988年5』収録、山西省博物館所蔵とあり
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- もし信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 3
240 :人間七七四年[sage]:2011/07/30(土) 15:28:29.79 ID:7+lODW8M - 見ても(参考)長野記、箕輪軍記がネタ本だから御期待には沿えないけどね
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760 :人間七七四年[sage]:2011/07/30(土) 23:07:40.81 ID:7+lODW8M - まず、上の抜粋文で砲の字を当てていたのは全て「炮」です
文字化けすると思って砲にしたけど余計だった、ごめんちゃい 「鉄炮殻」は、宋代の炮が爆発物を指すこと、数え方が個でなく消耗品の隻なこと 殻もおそらく宋代の爆発兵器が蝋紙や陶器で覆われていた処から付いた名称なので 火砲ではなく手榴弾とか投石機で撃ち出す榴弾の類。 あと景定建康志参考の文は加筆した抜き出し文でなく筆者の要約文、文体も今風 平陽衛製造の出土品に刻まれた銘文は「鉄炮」で確定だと思います 幾ら何でも研究者が彫られてる銘文を読み間違えたりはしないでしょう。 「鉄銃」ではないので、日本の鉄砲とは違いますけど 明代は、青銅製なら銅炮、鉄製なら鉄炮と呼ぶのは普通のよう 一品だけ銘文の図が載せられてますけど、確かにシリアルナンバーありますね 「莱州衛(竹冠に耒)宇二十九号 大砲筒〜」
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