- 南陸奥の小勢力 田村・岩城・留守・国分らを語る
32 :人間七七四年[]:2011/06/20(月) 17:52:43.41 ID:G9KtQzlv - 866 名前:人間七七四年 投稿日:2011/06/19(日) 11:00:24.45 ID:VuOGkfDO
留守政景の諱について。 留守氏の通字は「家」だったものの、伊達から養子に入った郡宗以降、 景宗、顕宗と伊達宗家と同じく「宗」を通字として下にしている事から、 伊達傘下の親族大名として遇されていたと思います。 政景が父・晴宗の政略で留守氏を継いだのは、1567年。(政宗誕生年) 伊達宗家は既に輝宗の代になっていたとは言え、中野宗時・牧野久仲親子 が追放される前なので、輝宗は実権を掌握しきれていない状態。 果たして「政景」の名は誰が与えたのか。やはり輝宗なんですかね? 国分盛重も初名は「政重」で、1577年に国分氏を代官の名目で相続。 輝宗次男・小次郎の諱も「政道」説が有力。 よって、養父の顕宗が与えたのではないと思ってますが。 輝宗が、将軍家からの偏諱は諦めて(四弟・親宗は昭光になったけど)、 世子の諱を早い段階から「政宗」と決めていたのだとしたら、 「政」の字を大盤振る舞いな気がするんですよ。 親族の結束を図って「政」の字を与えたなら、父の隠居領を相続した末弟が 杉目「直宗」なのが、ちょっと違和感。 それとも大盤振る舞いではなく、優遇されるべき者が「政」の字を与えられ たのか?(だったら、従来通り「○宗」で良い気が…) 当初の留守家は傘下の大名だし、政景が信頼厚い重臣となったのは疑いない ところではありますね。 政景の「政」が政宗に由来しないのなら、政宗元服直後に諱を改めるのが 自然の様な気がします。むしろ、政宗の代になって「政」の字を与えられた のなら全く違和感ないのですが。 政宗が従兄弟甥の岩城長次郎に「政隆」を名乗らせているのは、 政宗が岩城出身の祖母・裁松院を慕っていた故の優遇と推測しますが、 他に政宗の代で「政」の字を持つ家臣いたかな?
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