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人間七七四年
戦国ちょっといい話27

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戦国ちょっといい話27
234 :人間七七四年[sage]:2011/06/18(土) 23:02:06.63 ID:eTwlDxX4
〜夏の陣、大坂城にて〜
大野治房は後藤又兵衛・真田信繁・明石全登・毛利勝永を呼び寄せ今後の展開を相談
後藤又兵衛曰く『徳川軍は大和から河内を必ず通る、そこを崩せば7・8割方勝てる』
堀を埋められたしまった豊臣方に大坂城籠城戦という選択肢は消え、前に出て行くしかない状況
≪生駒山脈を越え河内平野に出てきた徳川軍を待ち伏せし、先方部隊を叩く≫
真田・毛利・明石・大野は又兵衛の作戦に賛同し作戦は即日、明朝に行われた。(この会議は又兵衛が他諸将との仲次第で見解が変わる)
 
先方:後藤又兵衛・薄田兼相・明石全登etc=6400 後方:真田信繁・毛利勝永etc=12000

5月5日、河内平野で野営していた豊臣軍の作戦は
道明寺村に後藤・真田・毛利隊が着陣後に大和川のすぐ東の狭地、国分村にて徳川幕府軍を攻撃する
この手筈で進む予定であった。

5月6日、後藤又兵衛が道明寺村に到着し後衛を待つが真田・毛利・明石・薄田などの諸将は一向に現れない
後衛部隊ならともかく、前衛部隊ですら道明寺村に姿を見せていない、流石に又兵衛は焦った
『このままでは不味い』と思う束の間、偵察から国分村に既に幕府軍が陣を取っているとの情報が入る。
又兵衛の取れる策は『後退』・『道明寺村にて前衛薄田・後衛真田を待つ』・『渡河し国分村の前、小松山に向かう』
考えられる限りこの3つである―
後退:仮に援軍が来ている可能性もある、論外
待つ:援軍が来ていれば、来なければ×
渡河:小松山は砦として機能する、時間を稼ぎ援軍の到着を待つ

又兵衛は勝つ為の選択を取った、通常の将ならば援軍が来るまで待つ可能性が高かったであろう。
『仕方あるまい、しかし、早く来てくれ…』又兵衛は小松山に陣を張る為に渡河を決行した、後方を見るがやはり援軍が来る様子はない…
小松山に陣取った後藤又兵衛軍に徳川軍が気づかない筈がない、直ぐに小松山包囲戦が開始された。

戦国ちょっといい話27
235 :人間七七四年[sage]:2011/06/18(土) 23:05:26.33 ID:eTwlDxX4
〜5月6日 河内国 道明寺国分小松山 道明寺の戦い〜
小松山後藤又兵衛2800 大和口先鋒:水野勝成3800 二番手:本多忠政5000 三番手:松平忠明3800 4番手:政宗10k

『やはり又兵衛、まんまと釣られたか!』
後藤又兵衛の小松山進入は、嘗て同じ時間を共にした水野勝成にはお見通し、勝成はすぐさま小松山に攻撃を仕掛ける
しかし又兵衛は釣られた訳ではなく端から小松山で時間を稼ぐつもり―
『やはり勝成か―皆の者!援軍が来るまでの辛抱ぞ!』
AM 4:00 〜開戦〜
一番隊先導役で大和衆の奥田忠次が小松山に突撃してくると又兵衛隊は直ぐに応戦し奥田忠次は戦死した…
松倉重政が奥田と戦う又兵衛隊の隙を突き小松山の南に入る
後藤隊は後方を断たれてしまうが又兵衛隊の猛攻は凄まじく松倉隊も壊滅的な被害を受ける。
(まだ来ぬか!薄田隊!明石隊は何をしておるのだ!)又兵衛の焦りは徐々に増すがまだ姿すら見えず―
―(少数部隊では埒が明かぬ)水野勝成は等々自ら後藤又兵衛の守る小松山に向かう
しかし又兵衛隊の奮戦・勢いは水野隊が加わっても全く怯む様子が全く無く結果的に水野は予想とは違う苦戦を強いられることとなる
そして本多・松平隊も包囲に加わり又兵衛を囲む幕府軍の軍勢が12600となり…開戦から5時間後―

政宗『待たせたな!』 10kの政宗軍が包囲に加わり
西:水野 南:松倉 北:政宗 東:本多・松平の波状攻撃に又兵衛隊は曝される事となる

又兵衛(援軍が何処まで来ているかは見当もつかぬ・・・せめて道明寺村まで来ていれば)

戦いは伊達軍が参戦したAM9:00から更に3時間が経った時
『死にたくない者は去って平野の本営に合流しろ』しかし又兵衛の言う事は誰も賛同しない。
その後又兵衛の前に現れた片倉隊により又兵衛は腰を撃たれてしまう。
大坂方唯一と言って良い歴戦武将、後藤又兵衛は小松山に散った(異説あり)
残った又兵衛隊は又兵衛の死を知ると殆ど逃亡する事無く敵陣へと散り殉死していった。

後藤又兵衛2800 幕府軍22600 と8倍の兵力に臆することなく戦った又兵衛が稼いだ時間は大凡8時間
しかし午後になっても援軍は来る事はなかった、更には幕府軍は追撃戦で石川の渡河も終えてしまう。
豊臣援軍は道明寺にすら辿り着けていなかったのだ。(薄田隊400『だけ』は河原に陣取っていた)
これ以降豊臣方では『策』を用いった戦いは無くなり将個人の力による場当たり的な戦いだけが頻発してゆく。
今福の戦いで又兵衛と共に指揮を執った木村重成も又兵衛の後を追うように散る。

余談だが、後藤又兵衛の突出と援軍の遅れは霧の原因とされているが、やはり不自然な点も否めない部分もあるが
別の話であるように又兵衛は徳川家康との『和睦』を求めていたのであれば、遅かれこうなる運命となったのかもしれない。
真田・明石・毛利隊が何故遅れたのか、その理由は謎に包まれたままである
戦国ちょっといい話27
236 :人間七七四年[sage]:2011/06/18(土) 23:11:40.76 ID:eTwlDxX4
カテゴライズは
後藤又兵衛〜その生き様〜
でお願いします。




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