- 上杉景勝VS伊達政宗
545 :人間七七四年[]:2011/06/18(土) 06:46:51.75 ID:5ZsuX1ab - おいおい、勝手に俺が書いてる判定しまくってんじゃねーよ。
ひさしぶりにやってきたら俺のせいかよwwwんで、今回は栗田の話か?よく飽きないな。 高橋明が主張するには紹襲録に慶長5年3月栗田刑部と藤田が出奔って書いてあり 関が原敗戦からしばらく経った慶長7年8月に二本松温泉行くと暇を貰って栗田刑部少輔が 藤田と示し合わせ出奔し殺されたと書いてあるとのことで前者と後者で藤田の申し出を受け 出奔した人物として栗田刑部と栗田刑部少輔の2人がいるとわかる。 叔父栗田刑部出奔で殺され→景勝家康和睦し米沢減転封→大幅石高減少し一族の刑部内通の一件もあり 上杉家中に居づらくなった甥の刑部少輔も藤田を頼って出奔せざるおえなくなり殺されたと解釈すべき。 慶長5年8/14「水常・栗刑が二本松在陣」(読史堂上杉家記)9/3「栗刑も招くべき」(本庄文書上杉家記) この書状における栗刑は後世の捏造書状か、もしくは栗刑少を指してるかどちらか。 光成準治は文禄3年10月に永寿丸と名乗ってるが、のち会津御在城分限帳で刑部少と名乗ってるとする。 8/14書状には本文は一切触れてないが9/3の書状を原本がなく確認できないと上杉家記を 批判気味に書いてこの写し史料からは断定を保留し可能性として書くに留めている。 殺された甥の栗田刑部少輔(永寿)の遺児は寛喜と名乗り善光寺別当になろうと動いていたと言う。 殺された叔父栗田刑部末子が栗田刑部を名乗り宇佐美勝興を通じて水戸頼房に仕えてると言う。 栗田の叔父も甥も双方とも出奔の罪で関が原を挟み前後して殺されているとみるべき。 家名を残すために一族を東西に分ける生き残り策をしようとして栗田一族は失敗したにすぎん。 だから>>537が正しい。慶長5年3月栗田が藤田に同調して出奔してないし殺されてないとか史料の曲解で大ウソ。
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- 【臼井城の戦い】上杉謙信が北条に戦略的勝利
96 :人間七七四年[]:2011/06/18(土) 07:16:04.51 ID:5ZsuX1ab - Wikipedia編集なんてキチガイ粘着たちの戦場だろが。
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- 【謙信】臼井城について【潰走】
140 :人間七七四年[]:2011/06/18(土) 07:17:15.94 ID:5ZsuX1ab - 議論すらできない無知無能の北条厨www
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- 上杉景勝VS伊達政宗
547 :人間七七四年[sage]:2011/06/18(土) 07:51:27.33 ID:5ZsuX1ab - >>546
高橋は藤田出奔の際の栗田刑部と栗田刑部少を 無理矢理同一視した挙句に さらに怪しい上杉家記を盲信することで結論を出していて、 そこに説明が一切ないから それを是とすると今度は 直江状が後世に一部改変されていた説を採ると 藤田の出奔すら無かったと否定する話になり 完全に辻褄が合わなくなっている。
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- 上杉景勝VS伊達政宗
549 :人間七七四年[sage]:2011/06/18(土) 09:37:48.49 ID:5ZsuX1ab - また根拠ない同一人物認定を盲信してバカだねこの自演伊達厨。
光成氏は史料の信憑性に疑問を提示し可能性として発言したに過ぎない。 光成氏はいまいち頼りない判断してんだよね。まぁいろいろと誤認してるよ。 例えば毛利の阿波侵攻も大坂方は関与しておらず、毛利のみで進めたみたいなことを書いて間違えてる。 実際は家康が上杉征伐の際に御陣場御見習いと称して 小笠原秀政の娘と婚姻してるこの時わずか15歳の至鎮を強引に連れ出して人質となして出征。 やむなく至鎮を守るために益田一正ら18騎も随行。 三成挙兵→至鎮の婚約者の小笠原秀政の娘を救うべく高木法斎が徳島にいた家政の許可なく 北陸軍として加賀大聖寺城に入ったために三成による弾圧を免れることに成功。 大坂方から木俣半之丞が徳島にきたが人質を取られた家政は家康追討の名分がないと反対。 これを受けて大坂から家政に親しい前田玄以が徳島へ出仕要求にきた。 家政は仕方がなく大坂へ出てきて「患いの最中でなおかつ年寄りでもあるから従軍は勘弁して欲しい。 その代わりに国兵を差し出すから自由に使って差し支えない」 と大阪に味方すると約して、諸将の了解を得て下城しのちに高野山へ行く。 そこで大坂方から小川越前&小早川豊前が徳島へ来て家政の意として大谷・木下勝俊に属して北陸へ向かうように指令って流れなのに。 なんでも与えられた情報を盲信・鵜呑みにして思考停止するのはよくないよ。 特定の思惑の元に誘導されbrainwashingされるだけだ。
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- 【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ16【東軍】
169 :人間七七四年[]:2011/06/18(土) 17:31:46.59 ID:5ZsuX1ab - キチガイ粘着の毛利厨がまた無茶苦茶な論理を持ち出してるな。
毎回論破された挙句に根拠ゼロのケチを付け始める。 しかもまーた「おかしいなんて言ってない」とか曖昧な言葉を使って自分の意見を不明瞭にしてきてるしwww 秀次が死んだ後に出した誓約書には太閤の御法度・御置目を尊守する・違背した者は我々一同相談し成敗 自分に分別が無かったら司法担当の者たちの衆議に服する等々の誓約書を出してる。 そして家康は違背し司法の者達の衆議に服さないので成敗される立場になったわけだ。 そしてその司法と衆議とは下記のメンバーである。 宇喜多(義兄として逃れあるまじき間柄)と前田が下国せず秀頼の傅役として特別な地位にいて しかも利長は秀頼に近侍し輔弼する奏者で利政は秀頼警護の詰番衆。 それに次ぐ者として家康・隆景・輝元・三成・長盛らは同格の地位とされている。 家康は謀反人・隆景は死去・利長も遺命を破り勝手に下国したから謀反人。 よって秀頼を補佐する秀家・輝元・三成・長盛が豊臣政権の意思そのものであり家康に一片の正義もない。 家康が専断により前田と上杉を謀反人に仕立て上げた手法よりも、 衆議で家康を謀反人にした秀家・輝元・三成らの方がより正式な手続きと故太閤の遺令を遵守してる。
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