- 関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法
337 :人間七七四年[sage]:2011/06/15(水) 03:26:36.00 ID:bVbxdPFU - >>334 板坂卜斎の書いた慶長年中記のこと?慶長年中記による三成襲撃メンバーは
池田輝政ではなく脇坂安治に改変されてたりで改竄してんじゃないのか? (秀秋陣に隣接布陣してる脇坂は西軍にあって当初からずっと家康に内通し味方認定されてる) 慶長年中卜斎記で「筑前中納言殿むほんと風聞候、仕置いたずべきとて出られ候由」と書いてるが なぜ敵方の三成らの考えを家康の侍医やってた卜斎が知ってんだよと思う。 しかも秀秋に関してはあくまで噂レベルだし、東軍の偽情報戦術かも知れず内通と決まったわけでもない。 徳川実紀ではさらに脚色がなされ島左近らが秀秋らが挙動不審なので関が原へ行くように 勧めてるに至っては明らかに幕府の思惑で史観が成立してるように思う。 この秀秋謀反させたネタは斎藤福改め朝廷からの下賜された名である春日局のダンナ稲葉正成の ロクに武功がなかった窮余の捏造武功ネタに関わってくるからものすごく怪しい。 明らかに毛利の布陣は三成らのいる大垣城への救援の後詰め最前線の位置。 その背後にあって関が原の予定戦場には西軍が集結し陣地構築の完成を見て 野戦で一挙に事を決すべく三成らが関が原へ誘導すべく撤退しただけでしょ。
|
- 関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法
338 :人間七七四年[sage]:2011/06/15(水) 03:32:35.14 ID:bVbxdPFU - そもそもまず秀秋は伏見城攻撃やってんだから旗翻は明らかに西軍。
ただ実際には万が一の保険を家中それぞれの派閥の家臣を通じて東西双方の大半の大名がやってたと思うよ。 だから内応交渉してたから東軍なんて主張は意味が無くて、公での旗翻で見るべきでしょ。 だいたい最初から小早川が東軍なら何で、あんな危険な位置に大谷が布陣していてしかも早期に小早川排除に動かないのか不明だし 小早川の先鋒は西軍側の松野主馬なんだから、秀秋が東軍なら松野なんて連れて来ないし、さっさと排除してるでしょ。 実際に秀秋は傍観者を決め込み家康から派遣された奥平貞治から再三に渡る出陣依頼も拒否しまくりだったわけだし 東軍に参戦と決まり、松野が怒って出奔した後に小早川先鋒を指揮する人間がいなくて 結局、奥平が指揮を引き受けて下山するも後続が続かなくて大谷に苦戦した挙げ句に 奥平はのちに死ぬほどの致命傷を受けてるじゃん。 最終局面で脇坂を筆頭に赤座・朽木・小川が裏切り(脇坂が調略し仕組んだ?) 大谷を攻めなければ奥平は討ち死にしてた。 小早川軍が当初から東軍なんて断言できないでしょ。 そもそも9/12石田→増田で大垣城の伊藤は若輩でその家中の能力を疑い人質取ると書いてあるのみ。 西軍の伊藤を叩き出して松尾山に布陣ってのは春日局ダンナの武功を捏造するために書かれた後世編纂の三次史料。
|
- 関が原の合戦、西軍100パーセント必勝法
339 :人間七七四年[sage]:2011/06/15(水) 03:35:49.82 ID:bVbxdPFU - 吉継が秀秋を2回にも渡って会談して暗殺しようとするすごい妄想軍記。
三成も当日は小早川に山を見張って動かなくていいからって言ってるだけだし 三成から増田への12日書状で松尾には中国勢をいれ敵陣は20日のうちに破るって書いてるから 秀家か毛利か小早川が寡兵の伊藤に代わって防備するのは不思議な話じゃないし、 そもそも伊東は本当に松尾にいたのかどうかも怪しい。 小早川は14日の太陽が照ってる時間には移動完了してるし 大谷や毛利や秀家に至ってはもっと前からいたし、はっきりした敵認定してるってんなら 大津城攻撃隊の一部を転用してでも早期に除くだろ。なんで放置してんの? さらに松野が先鋒してるんだから最初から小早川が東軍と決めていたわけじゃないのは明らか。 みんなある程度はお家存続のために東西両軍に唾つけてるしそれに三成も味方中の心中も計り難いと言ってる 毛利の陣の動きを注視しつつ様子見して戦況を眺めていたからだいぶ傍観してて小早川参戦は正午を回ってからだよ? 早朝の濃霧があけ始めて開戦してからかなり経過してるまで動いてないのは秀秋自身の悩みがあるだろう。 徳川の説得工作の継続と毛利陣が動かないことによる疑心暗鬼のダメ押しにキレた家康の秀秋陣への鉄砲銃撃威嚇が決定打。
|
- 豊臣恩顧どもはカス(福島加藤浅野・・・)
394 :人間七七四年[sage]:2011/06/15(水) 03:59:52.63 ID:bVbxdPFU - 伏見城1800で4万はさすがに想定外だろうね。
鳥居元忠、内藤家長、松平家忠、松平近正ら 死も辞さぬ忠臣を失ったのは痛い。
|