- 戦国ちょっと悪い話26
632 :人間七七四年[sage]:2011/06/13(月) 01:36:39.99 ID:zmsWybXy - >>629
家光は政宗の主君だから、「政宗」と呼んでOK これはどうか知らないが、この当時や近い時代の資料でも政宗のことは「政宗」と書かれているものが やたら多いのね。「伊達侍従」とか「越前守」とか「陸奥守」とか書かれているものは非常に少ない。 どうも政宗は自分の諱を世間に積極的にアピールしていたのではないか、という気がちょっとするw
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- で、戦国最強の忍者集団はどこなんだ?
283 : 忍法帖【Lv=12,xxxPT】 [sage]:2011/06/13(月) 01:37:23.18 ID:zmsWybXy - t
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- 戦国ちょっといい話27
108 :人間七七四年[sage]:2011/06/13(月) 01:46:00.96 ID:zmsWybXy - >>106
近代デジタルライブラリーで、「国史叢書」か「日本歴史文庫」で検索すると 幸せになれるかも知れない http://kindai.ndl.go.jp/index.html
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- 戦国ちょっといい話27
124 :人間七七四年[sage]:2011/06/13(月) 09:32:18.79 ID:zmsWybXy - 慶長16年(1611)、豊臣秀頼が上京し二条城にて徳川家康に対面した。その帰路のこと。
加藤清正は屋敷の前の川に船を浮かべて、そこで秀頼一行に食事のもてなしをした。 この時清正は屋敷の前の橋(肥後殿橋)から川下まで三町(約330メートル)ほど、 川の左右を竹にて虎落(もがり)を結び金屏風を隙間なく置いて、外から船中を見られないようにした。 その上で秀頼のお供の衆のうち下々にまで残れず馳走をした。 そのころ都に梅春という料理人があった。 清正はこの馳走のため彼を呼び寄せ料理を作らせたのだが、秀頼のお供下々までに出す 料理の献立の中に「蒲鉾」と書かれているのを人々見て、 「秀頼公のお供は大人数である。その人数に行き渡るほど魚の身をすりつぶすのも、また 板につけて炙ることも、短時間行でうのは難しいのではないか?」 と懸念した。 が、梅春は魚を取り寄せると大勢で一斉にさばき、骨を取ると大きな臼を2つ3つ並べ、 杵でこれを突けば即座にすり身となった。これを板に付け、一方庭の中を長く掘り、この中で 大量の炭火を炊いて左右に畳を並べ蒲鉾を段々に挿して炙った。 これにより蒲鉾は少しも滞り無く秀頼一行に出された これを見た人々「扨も扨も良き才覚仕りたり」と感心し、その頃の大阪伏見での話題となったそうだ。 今ではなんてことのない話であろうが、慶長年中の頃まではこう言ったことも珍しかったのである。 (續撰清正記)
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