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人間七七四年
戦国ちょっといい話27

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戦国ちょっといい話27
62 :人間七七四年[]:2011/06/12(日) 00:08:49.18 ID:+dAo55Yr
52に応援されたから本とか史料とか読みなおして
いい話スレに悪い話を
悪い話スレにいい話を

書いていこうと思います
戦国ちょっといい話27
67 :人間七七四年[]:2011/06/12(日) 02:11:11.34 ID:+dAo55Yr
1600年にあの織田信長の嫡流である織田秀信は石田三成と
徳川家康の争いである関ヶ原の戦いにおいて家中には東軍派も多かったが
三成率いる西軍に直々に秀信が三成と面談し祖父の旧領である美濃尾張を約束され三成に同心することとした。

東軍が小牧評定の後に福島や池田を先鋒として美濃に攻めかかり
美濃は西軍派が多かったにも関わらずあっという間に防衛戦を突破されてしまう。
秀信は岐阜城に東軍の大軍が迫ってくると3500人で木曽川を用い1万7000人を迎え撃ち川の手で鉄砲を打ちかけたり
百々綱家が伏兵を用いたりで奮戦するものの大軍に勝てるわけもなく敗北、秀信軍は撤退して岐阜城に籠城した。

岐阜城はけして堅固ではない城であるが、東軍と西軍は相当な激戦となったようで秀信の家臣である飯沼長資が一騎打ちで
東軍の一柳家の勇士大塚権太夫を討ち取ったり正面から攻めてきた福島隊相手に上格子門で
またその他の東軍にも砦や施設でも奮戦を見せたようである。
しかし岐阜城は大軍相手にはとても支えきれず一日で本丸に追い詰められで38人が籠城してるだけとなった。

秀信はここにいたり家臣の軍功を褒めた感状を書き記し最期まで付き従っていた家臣全員に与えたのである。
感状は再仕官の際の証明書のようなもので、その内容により仕官の可否や禄が決まるということで禄を失った家臣への
秀信の最後まで従った家臣への優しい配慮であった。またそれを書き終えたあと自害しようと秀信はしたのであった。

東軍の池田輝政の降伏勧告もあり秀信は岐阜城を開城開城、助命されることとなった。

どうでもいい余談
せっかく感状を書いてもらったであろう秀信家臣の38人は落城時に切腹、現在でも血痕が残っている。
秀信家臣の多くは福島家に仕えるものの福島家は旗本となってしまったり元秀信家臣の中にはキリシタンで処刑されたのがいたり、
歌人になった人間がいたり秀信自身は高野山を追い出され仕官すら出来なかったようで感状はあまり役に立たなかったようである。
戦国ちょっといい話27
73 :人間七七四年[]:2011/06/12(日) 04:18:54.17 ID:+dAo55Yr
伊賀忍は戦国時代で有名ないわゆる特殊部隊である。
彼らは独立心旺盛な国人でもあり三好長慶、後に織田信長に敵対し続けた。
1568年の織田信長上洛後には甲賀と共闘し信長と戦い続けている。

伊賀は、伊勢、近江、山城等に近い要所であり特に信長の治世後半は信長の領国のど真ん中に位置する
土地であるにもかかわらず長い間、独立を保ち続けた。
反信長の朝倉、浅井、別所、一色、六角らが滅亡していく中、伊賀の国人は独立を保っていたのである。
織田信雄が大軍を持って攻めてきた時も撃退し、伊賀忍の実力を見せつけている。

しかし織田信長の宿敵であった武田信玄、上杉謙信が滅亡した後、邪魔者はいなくなったと
信長軍は4万の大軍で伊賀の里を攻撃し田畑や建物を燃やし尽くし老若男女にいたるまで殺害し尽くした。
比叡山焼き討ちや長島一揆皆殺しと同等の凄惨な殺戮と風景が展開されたのである。
所謂天正伊賀の乱である。
伊賀国人達は1万しか集められず丹羽長秀に謀略を看破されるなど数の違いもあり次々と征服されていき砦は落とされていった。

伊賀一揆が追い詰められついに最後の砦になったとき、なんと織田信長が伊賀と和議を結んだのである。
最後の砦で敵を根絶やしにせず和議を結ぶという信長の慈悲が見られる素晴らしい話である。


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