- 戦国ちょっといい話26
989 :人間七七四年[]:2011/06/09(木) 23:01:09.86 ID:Nhp7GXsD - いい話
毛利勝永の妻の話がこのスレで出てきたから言及することとしよう。 毛利勝永は豊臣秀吉の黄母衣衆の一人で譜代である毛利勝信の子であり、父と共に豊臣家に仕えた。父が主君秀吉から小倉6万石に封じられ、勝永にも1万石が与えられ 秀吉の計らいによりそれまでの森性から中国地方の太守である毛利姓に改め朝鮮出兵にも出陣し、戦功を立てている。 1600年、毛利勝永は関ヶ原の合戦で父と共に西軍として出陣し伏見城の戦いでは抜群の戦果を残すが関ヶ原本戦では石田軍が敗北したため父と共に改易となり父子は加藤清正、山内一豊に身柄を預けられた。 毛利親子が関ヶ原の合戦後に死罪にならなかったのは奉行であった父、勝信が以前伏見城普請で困っていた家康に密かに木材を渡したからである。 親交があり同郷であった山内一豊には父子共に手厚く扱われ弟が山内家の家老にまでなり二千石を有し、 勝永には(勝信?)千石の領地が与えられ勝永は山内家で不自由ない生活を送った。 時代は流れ豊臣家と徳川家が険悪な関係になり父は既に死んでいた。毛利勝永は豊臣家の恩に報いるため大坂に参陣するべきかどうか悩みに悩んだ。 勝永は現代の主家である山内家にも大きな恩があるが昔に豊臣家から受けた大恩が忘れられなかったのである。それどころか四国に流されてからも毛利家は豊臣家に援助されていたからだ。 毛利勝永は悩んだ挙句「豊臣家から受けた恩のために秀頼公のために一命を捧げたい」と妻に相談した。 これは勝永が大坂城に入ると妻や息子が犠牲になるということで、勝永は恩のために死んでくれないかという ある意味では自分勝手な残酷な決断を妻に託したのである。妻はその夫の悩みに見事な女傑とも言うべき「お家のために働くのは名誉です。私たちのことが心配なら私たちは死にます」 と夫に答え、自らの犠牲のもと恩に報いるべきとあっぱれな答えを残した。 さてその見事な女傑である妻のあっぱれな返答を受けた毛利勝永は大坂城に参陣することとし、索を使い山内忠義との衆道関係を利用し 人質を国許に一計のために残し息子である毛利勝家と共に大坂に入場した。徳川家康はこの話を聞き毛利勝永の立派な忠義と奥さんのあっぱれな答えに感じ入ったのか 山内家に「毛利勝永の妻子を殺してはならないと」命じ人質の妻子は城内にて保護されている。 豊臣家から受けた恩のために大坂に入場した毛利勝永は大坂冬の陣では真田信繁と共に出撃策を唱えるが却下され大坂城の守備にまわり無難に守備をしたのである。 大坂夏の陣では見事な獅子奮迅の活躍で家康を切腹寸前まで追い詰めるが哀しいかな、時勢は家康にあり数に押し切られ敗北をしてしまう。 大坂城に退却をし一説には恩に報いるべく秀頼の介錯をし親子とも秀頼に殉じた。 その後毛利勝永の次男は10歳で恩とやらのせいで山内忠義の手によって京都で処刑された。
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