トップページ > 戦国時代 > 2011年06月09日 > Nhp7GXsD

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人間七七四年
戦国ちょっといい話26

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戦国ちょっといい話26
958 :人間七七四年[]:2011/06/09(木) 00:11:14.05 ID:Nhp7GXsD
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戦国時代の勝利者、徳川家康は戦国のを太平の世にに変えるべく日本に儒教道徳と朱子学を導入した。
儒教とは孔子を祖とする学問であり仁義礼智信を治め、人道を大事にする優しい教えであるため
徳川家康は儒教を導入したのであろう。けして徳川家の天下のみを安泰させるためではない。
この儒教は「親を大切にする」「企業に忠義を尽くす」など現代の社会規範のベースとなっており徳川家の天下泰平の影響が現代でも見受けられるのである。

徳川家康が導入した朱子学は武家の間に瞬く間に日本中に広がり、あのドラマで有名な水戸黄門も朱子学に傾倒し
日本の歴史を残すために朱子学的な書である大日本史を8割の税をとりながらもどうにか完成させる偉業を成し遂げた。
また彼の朱子学的な勤王思想は水戸学となる。

江戸時代の摂政である新井白石は、近代経済学の常識である「国家が信用を創出し通貨を管理する」思想を先進的に有していた
荻原重秀を儒教思想のもとに失脚させデマを垂れ流し貶める「荻原の死体を八つ裂きにするべき」などと主張したりし
現在の新自由主義経済のような「商人が跋扈する社会」を厳しく対処している。

幕末には朱子学的に傾倒した志士が尊皇攘夷を主張し外国人を無差別に殺害し
特に幕府が近代化に四苦八苦してる時に水戸学がスタンダートとなっていた水戸藩が親藩なのに
テロを起こしまくり幕府の足を引っ張った。皮肉なことに徳川慶喜が将軍になった後に苦労することとなる。
志士たちは攘夷に失敗した後近代化を指向していたが強力に推し進めた。

大日本帝国時代は修身教育と教育勅語で愛国心を養った。

戦後も日本人は会社に忠義を尽くし長時間労働で滅私奉公をし高技術に貢献しているのである。
新卒が常に採用され年上上司を師とする牧歌的なシーンも儒教であり、年功序列は年とともに責任を負わせる
日本社会の微笑ましい体制である。
また役人を高給高待遇で雇いまた言うことを民衆は聞き犯罪者の家族まで責任を追求するため「秩序」は優れている。
これらはすべて無秩序の戦国時代に心を痛め儒教を導入した徳川家康の功績である。
戦国ちょっといい話26
989 :人間七七四年[]:2011/06/09(木) 23:01:09.86 ID:Nhp7GXsD
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毛利勝永の妻の話がこのスレで出てきたから言及することとしよう。
毛利勝永は豊臣秀吉の黄母衣衆の一人で譜代である毛利勝信の子であり、父と共に豊臣家に仕えた。父が主君秀吉から小倉6万石に封じられ、勝永にも1万石が与えられ
秀吉の計らいによりそれまでの森性から中国地方の太守である毛利姓に改め朝鮮出兵にも出陣し、戦功を立てている。
1600年、毛利勝永は関ヶ原の合戦で父と共に西軍として出陣し伏見城の戦いでは抜群の戦果を残すが関ヶ原本戦では石田軍が敗北したため父と共に改易となり父子は加藤清正、山内一豊に身柄を預けられた。
毛利親子が関ヶ原の合戦後に死罪にならなかったのは奉行であった父、勝信が以前伏見城普請で困っていた家康に密かに木材を渡したからである。
親交があり同郷であった山内一豊には父子共に手厚く扱われ弟が山内家の家老にまでなり二千石を有し、
勝永には(勝信?)千石の領地が与えられ勝永は山内家で不自由ない生活を送った。
時代は流れ豊臣家と徳川家が険悪な関係になり父は既に死んでいた。毛利勝永は豊臣家の恩に報いるため大坂に参陣するべきかどうか悩みに悩んだ。
勝永は現代の主家である山内家にも大きな恩があるが昔に豊臣家から受けた大恩が忘れられなかったのである。それどころか四国に流されてからも毛利家は豊臣家に援助されていたからだ。
毛利勝永は悩んだ挙句「豊臣家から受けた恩のために秀頼公のために一命を捧げたい」と妻に相談した。
これは勝永が大坂城に入ると妻や息子が犠牲になるということで、勝永は恩のために死んでくれないかという
ある意味では自分勝手な残酷な決断を妻に託したのである。妻はその夫の悩みに見事な女傑とも言うべき「お家のために働くのは名誉です。私たちのことが心配なら私たちは死にます」
と夫に答え、自らの犠牲のもと恩に報いるべきとあっぱれな答えを残した。
さてその見事な女傑である妻のあっぱれな返答を受けた毛利勝永は大坂城に参陣することとし、索を使い山内忠義との衆道関係を利用し
人質を国許に一計のために残し息子である毛利勝家と共に大坂に入場した。徳川家康はこの話を聞き毛利勝永の立派な忠義と奥さんのあっぱれな答えに感じ入ったのか
山内家に「毛利勝永の妻子を殺してはならないと」命じ人質の妻子は城内にて保護されている。
豊臣家から受けた恩のために大坂に入場した毛利勝永は大坂冬の陣では真田信繁と共に出撃策を唱えるが却下され大坂城の守備にまわり無難に守備をしたのである。
大坂夏の陣では見事な獅子奮迅の活躍で家康を切腹寸前まで追い詰めるが哀しいかな、時勢は家康にあり数に押し切られ敗北をしてしまう。
大坂城に退却をし一説には恩に報いるべく秀頼の介錯をし親子とも秀頼に殉じた。
その後毛利勝永の次男は10歳で恩とやらのせいで山内忠義の手によって京都で処刑された。


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