- 【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
970 :人間七七四年[sage]:2011/05/28(土) 06:13:35.47 ID:w/2eqGhm - 今さら院政なんて非現実的だろ。
表舞台からの退場を意味してて 幽閉されるのと変わらん。
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- 島津義弘を有名にした木崎原の戦い
300 :人間七七四年[sage]:2011/05/28(土) 06:16:58.44 ID:w/2eqGhm - >>298
ねーよ。ガチきもいわ
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- 長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】
913 :人間七七四年[sage]:2011/05/28(土) 06:22:28.74 ID:w/2eqGhm - 上杉と伊達が和賀一揆を白河決戦のタイミングに合わせて
引き起こそうとしていたのは明らかだな。 伊達軍による北奥攻略が成功していたら面白かったのに。
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- もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
247 :人間七七四年[sage]:2011/05/28(土) 07:17:22.40 ID:w/2eqGhm - >>231
>>205>>219を読んでも理解できないの? 信玄の死によって反織田連合が瓦解したからこそ 浅井や朝倉は求心力を失ってしまい士気が下がり 朝倉のメインを張る者までが出兵拒否したから ロクに指揮経験もない義景が指揮して しかも浅井家臣の阿閉貞征の離反を受けて退路を封じられ 撤退を読まれて刀根坂の戦いで取り返しのつかない大敗をした。 >>232 俺は「信玄侵攻寸前の今川・信玄が死ぬ寸前の朝倉は すでに内部崩壊しきっていて弱体化し組織的な行動が全くできなかった」と言う 滅茶苦茶な発言に対して上記の朝倉の例の他に 「氏真は庵原忠胤を大将に1万5000と武田以上の兵力を動員してんだけど。 今川が敗れたのは徳川と武田の挟撃策と信玄得意の調略が致命傷になっただけなんだが」と書いてるわけ。 それなのになんでお前は「今川と朝倉が前段階ですでに崩壊してたって言うソースはまだなの?」って質問を ひたすら無視して逃げ回ってんの?なんでいつも質問には質問で返したり 根拠すら提示しないくせに相手の意見を否定してんの?ただ単に思いつきでケチつけてるだけだよな? さらに「動員数と内部崩壊は関係ない・兵員は適当にかき集めることも出来る」と書いてるようだが 内部崩壊していたら離散されまくりで兵力が集まらないのは 義景や勝頼の最後を見てもわかるだろ?内部崩壊してたら絶対にかき集められない。 そもそも信玄の駿河侵攻と勝頼の木曽征伐と言う個々にまったく違う戦いを同列視して比較する意味がわからない。 別に木曽の一戦が原因で武田が滅亡したのではなく武田滅亡の原因を探せば 長篠の戦いでの文武両道のベテラン幹部の大量討死が原因で弱体化と士気低下があり 同列視できそうな似た事例を探せば経験豊富な幹部大量討死の耳川の戦いの大友が該当する。 その後、人材を欠いたために領国支配が動揺し、あっと言う間に大友領国が瓦解したのは言うまでも無い。 しかし当時の今川には文武両道のベテラン幹部の大量討死なんてものはなかったから内部崩壊なんて起きてない。
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249 :人間七七四年[sage]:2011/05/28(土) 07:32:50.63 ID:w/2eqGhm - 北畠氏の本拠は多気御所と呼ばれた霧山城でそこは具房の妻の兄である北畠政成が城代として守り
隠居していた具教が最前線の大河内城で遠距離出張して指揮してた。 特に家城之清の武略は凄まじいもので織田軍をガンガン打ち破りまわり手におえなかった。 信長は大河内城2ヶ月大包囲において本田親康の船江城の陥落は難しいとして避けたら奇襲される始末。 さらに曽原城の天花寺氏と挟撃されるわ、氏家ト全も蜂屋般若之助ら36人討死と壊滅的打撃を受ける。 滝川軍も逆激を受けて谷底に落ちまくるなどして壊滅。 大河内城攻防は周囲の支城からの夜昼なき奇襲を受けまくり 将来の織田での出世を期待された池田衆のお馬回役朝日孫八郎・波多野弥三郎 丹羽衆の近松豊前守・神戸伯耆守・神戸市介・山田大兵衛・寺沢弥九郎・溝口富助・鈴木主馬允ら 高級幹部20人以上が討ち死に。氏家軍に夜襲をかけたり、信長本陣に肉薄突撃したり 藤堂高虎の兄も大河内城で討ち死に及んで信雄を人質として差し出して和睦する他に手が無かった。 (大河内城の北東の守りを固める大宮入道1000の阿坂城を1万5000包囲する秀吉は 左股に矢を受ける大苦戦で落城させたのは浅井長政が援軍に出していた配下の遠藤喜右衛門の調略によるもの) 織田軍は大河内城さえ落とせずアホみたいに討ち死にしまくりだった。 一隊を霧山城方面に送ったが政成の妻は松永久秀で大和国人を引き連れて援軍にやってくるなどで織田軍はボロボロ。 しかも北畠・松永・信玄はつながっていた。 信雄を人質に取ったことで水谷刑部少輔が家臣団の賛意を取り付け和睦に合意。 (北畠は信長から信雄を人質にとってるが 北畠は信長に人質を1人も出さず。 しかも嫡男信忠と次男信雄の2人だけは母が生駒氏だとされているため その価値は非常に高い) 実際、娘の雪姫の養子になっただけの小学校5年生信雄に家督相続が見えてたわけじゃない。 具教は具藤と一緒に三瀬谷城へ撤退したが暗に妻の実家の六角氏の支援を受けている。 北は宮川の険路・南は吉野や紀州に連なる南朝以来の結束を持つ土豪達の住むところ 西は大樹海に覆われる要害に地で伊賀国人とも連絡が取れた。 隠棲するや家臣達が具教を慕って集住しあっという間に城下町が形成されたくらい反織田だった。 船江城の者どもは信長の帰国を狙って銃撃し激怒した信長が曽原城の天花寺に 船江城破却を命じるや拒否し破却中の織田軍を伊賀衆で襲撃し壊滅させる。 信長は曽原城を攻撃するが苦戦し付け城を築くがまったく落ちず 逆に四五百森に潮田長助らが防御施設を作り対抗。結局、信長は破却どころか一城たりとも落せず。 具教が背後で伊勢長島一向一揆を支援していたのは 紀伊の熊野新宮の豪族で熊野水軍最強と言われた堀内氏善(新宮城主)らに支援要請してたのでもわかる。 井上専正入道教順は本願寺顕如の客将になる。家城之清は槍主水と呼ばれ勇名で鳴っていた。 ちなみに志摩水軍で北畠家臣だった小浜景隆は土屋貞綱の元で武田水軍創設に尽力。
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- もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
250 :人間七七四年[sage]:2011/05/28(土) 07:34:23.50 ID:w/2eqGhm -
南方には伊勢新宮を支配する田丸城ってのがあってだな。ここも北畠三御所の一つで 長島一向一揆壊滅後に信雄がここに入城するようになってから織田による北畠支配がスタートしたと言うべきもの。 1575年に信雄が家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになる(田丸具忠は一ノ瀬御所へ移城) 北畠当主として滝川に差出検地をやらせることで伊勢での実効支配を進めようとしたのだ。 それに対して信雄側の加藤甚五郎に対して熊野勢堀内氏虎が攻撃をかけて激破。 具教の差し金ということで信長が徹底調査すると 以前に鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。 ちなみに信虎が以前、北畠軍を率いて志摩から九鬼を追い払ってるなど同じ源氏ゆえか元々親しい。 信雄がきた後も伊勢湊を支配する鳥屋尾満栄が信長が伊勢水軍を長島一揆に使おうとするのに 非協力的で雑賀水軍などを攻撃しなかったり さらに反織田の者達が集まってきた曽原城。 ここは具房がやってくると戦わず降伏するなど織田に対して自作自演をやってる。 しかもこいつらすぐ松阪城の前身にあたる砦を具教御所様の許しを得たと言って集まってくるが ここは大河内城のすぐ南で田丸城の北方にある場所で反織田やってる。 そもそも具教らが暗殺された時に大規模な北畠一族の広範囲にわたる騙し討ちがあった事からも織田の北畠支配がうまく言ってなかったのがわかる。 1576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇した。 11月北畠具房と四男・徳松丸、五男・亀松丸が共に暗殺され 同日朝に次男・長野具藤、三男・北畠親成、北畠房兼、大河内教通、大河内具良、 波瀬具祐、波瀬具通、岩内光安、坂内具義は 信雄の妻の千代御前(雪姫)が兄達にぜひ会いたいと騙されて田丸御所に呼び出され暗殺。 坂内御所では坂内具房・霧山御所では城代・北畠政成・波瀬具通が殺されたことで 北畠氏は完全に指導者を失うことでやっと伊勢国を鎮定するまでは北畠氏の支配はうまくいかなかった。 剣豪国司と言われた具教ももっとも信用する藤方慶由の嫡男である藤方朝成の家臣達の挨拶と聞いて 完全に油断していたそうで短刀しかもっていなかった。 のち息子が主家に不忠したことにショックを受け藤方慶由は自害。 鳥屋尾満栄は具房の妻子(具房嫡男昌教はのち本願寺へ)を助け出すことに成功し 具教の弟で大和興福寺別当にいた北畠具親は伊賀吉原氏の支援により 還俗し1577年蜂起した際に合流し川俣の戦いで戦死。具親は国司家復興と打倒信長を掲げ毛利客将になった。
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