トップページ > 戦国時代 > 2011年05月24日 > OXxEQ/VX

書き込み順位&時間帯一覧

2 位/195 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数00800010000000000221000014



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
人間七七四年
▼火縄銃について語ろう▲
もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
【治部】石田三成総合スレ 8【佐吉】
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】

書き込みレス一覧

▼火縄銃について語ろう▲
680 :人間七七四年[]:2011/05/24(火) 02:02:12.04 ID:OXxEQ/VX
なんで王直を過大評価したがるアホがいるかね。
ほとんど妄想レベルの話ばっかだよな。
もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
29 :人間七七四年[]:2011/05/24(火) 02:27:31.71 ID:OXxEQ/VX
義昭も信玄の上洛に期待して挙兵を促しまくり
摂津の伊丹親興が挙兵したり、京都西岡地方で土一揆挙兵、西近江三井寺光浄院挙兵、
挙兵準備中の義昭自身は信長への和睦条件として
六角氏の甲賀にいた武田信虎に哀願して近江諸将と和睦斡旋してもらうように信長に命令してたり
毛利輝元を右馬頭に任じて隆景に出兵命令出したりと信長との対決姿勢をいよいよ強くしていったことからもわかる。
さらに三好三人衆だけでなく松永久秀や三好義継を許して信長に対して敵対させるし
信長も事態が切迫して義昭に対して「自分と信忠は将軍が許してくれるなら、頭を丸めて武器も持たずに会いに赴きます」と
土下座状態だったが義昭は強気を崩さず信長はさかんに「義昭の行動を公家や御所はどう思っているのか?」と心配して聞いてる。
さらに信長は義昭に人質を出すから和睦して欲しいと哀願してるし

義昭攻撃にあたり信長は金子100枚・大判200枚しか集められず
細川に荒木と協力して資金集めしろと命じた挙句に下記のような真似までやってるほど財源不足だった。
これにより織田軍は鉄砲・弾薬・兵糧すら満足に集められない状態。
上京焼討ちでは、戴恩記に信長が呼び寄せた近隣の土民達の略奪の凄まじさ
が書かれている。 また庶民が火事により大井川へ飛び込み溺死膨大(東寺光明講過去帳)
「京中辺土ニテ、乱妨ノ捕物共、宝ノ山ノ如シ」 (天正元年、織田軍上洛ノコト・「永禄年代記」「続群書類従」)
また信玄の西上作戦により織田の軍費がまったく足らず下京や寺社などに焼き討ちを免れるための条件に
大金を要求しまくって、それを軍費にする目的もあったので
(加茂野の地の寺社だけで銀棒300、各43匁の重量とフロイスは書いている)
天皇の御所まで延焼するのもまったく気にせず信長は「御所に類火が及べば遷幸するように!」と命じたので
困った天皇は信長の目論見通りに将軍義昭に信長との和睦を勧めて延焼がこれ以上に広がる前に調停させた。
こういうこともあり本能寺の変後に義昭は毛利の乃美への「信長を討ち果たした」
島津義久には「織田は天命のがれがたく自滅した」と語ってる

29日に信長が岐阜から上京。信長がやってきたところ二条城には三つの堀と数箇所の新しい稜堡が備えられてたという
二条城が大改造されフロイスも「とても陥落するとは思えない」と記述するなど信長完全涙目www
30日に先制攻撃で義昭が京都奉行の村井定勝の屋敷を包囲。
4/1に信長は京都吉田神社の吉田兼和に南都北嶺を滅ぼしたら朝廷の祟りがないか尋ねて
兼和が祟りになるような記述はないと解答を貰って安心してる。
4/2には総勢1万の軍勢を指揮する柴田(長光寺城主)・明智(坂本城主)・細川(山城出奔)・荒木(摂津出奔)
・鉢屋(のち肥田城主)・中川(安土古城主)・佐久間(永原城主)らに下賀茂〜嵯峨あたりまでの128箇所を全焼させた。
3日夜から上京の二条から北側を焼き払い、市民は大井川で大量に溺死で京洛は阿鼻叫喚の騒ぎになる。
あたり一面が焦土となりこれに危機感を持った天皇が動いて勅使が二条城で義昭を諭してから信長の元へ向かい
津田・佐久間・細川らが5日に二条城で義昭と講和交渉をはじめ
7日に講和完了し4/27に信長が和約の誓詞を差し出した。

金策命令の時に信長は丹波の宇津氏は義昭の供衆に加わったが丹波の実力者の内藤氏は義昭に味方していないと言ってるが
実際に義昭が二条城に籠城してるメンバーに射撃手1000を含む内藤5000が参加してたなど
たった1万の信長側は圧倒的不利な立場に追い込まれたために信長の予想戦略見通しは誤算の連続になった。
金策命令の時に謙信が武田の背後を突く予定だとか他力本願の希望的観測で虚勢を張ったが
義昭の甲越和与の力で信長の謙信への出兵要求を謙信はまったく聞いてないだろwww
それにいざという時は北条が北上して謙信を牽制すればいいだけだし
もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
30 :人間七七四年[sage]:2011/05/24(火) 02:32:05.66 ID:OXxEQ/VX

そういえば岡崎の信康と水野信元は信玄と内通してたっぽいしね。
浜松派閥の華やかな武功に対して岡崎派閥は内治の地味な仕事ばかりで反発してたと言うし。

残念ながら武田軍が野田城を落城させたあたりでの織田軍は1万しか動員できなかったよ。
あの年代記抄節でさえ信玄が撤退した報を受けて岐阜を出発した信長は
逢坂山で落ち合った細川・荒木を糾合して
(数少ない味方なので大郷の腰物や名物の脇差を与えて大喜びしてる)
三条河原で軍列を整え知恩院に陣した総兵力を1万と記している。
かなり国人達が離散して動員が難しかったんだろうね。
細川に信長が自分の味方だと言っていた丹波最大の実力者の内藤が
銃手1000を含む5000で二条城籠城に参加してるなんて言うとんでもない離反まで喰らってるし。
(叡山焼討ちで言継卿記が伝聞から3000〜4000人殺されたと驚いているのを
年代記抄節はおよそ1600余人と誇張に惑わされずに冷静に書いてる)

義昭攻撃にあたり信長は金子100枚・大判200枚しか集められず
鉄砲・弾薬・兵糧すら満足に集められないから細川に荒木と協力して資金集めしろと命令し
そして金を作るために賀茂から嵯峨までを火の海にして下京と神社仏閣を脅迫したのが信長。
さらに天皇を脅して義昭と和睦斡旋させるためにさらに上京まで火の海にして御所まで類火させた。
(二条城が大改造されフロイスもとても陥落するとは思えないと書き長政もニ条城が増強されたと述べている)

もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
31 :人間七七四年[sage]:2011/05/24(火) 02:43:49.70 ID:OXxEQ/VX
謙信が生きてて越前乱入が開始され毛利7万を播磨で抑える兵力が信長にはなかったから完全に破滅してたよね。
北条も謙信が上洛戦をするなら北条軍も援軍に出すから連れていってとお願いしてきてたし。
天正4年の8月前後に義昭によって北条・武田・上杉の同盟の形ができてきてた。
天正5年正月には毛利軍を主力にして三道同時進撃上洛作戦を発動し
4月には義昭が島津にも北条・武田・上杉が同盟したので上洛戦やるから協力せよと言ってる。
この大規模作戦発動が近いために信長の紀州攻めは途中切り上げの中途半端な講和で引き上げており
(固執してると退路がふさがれる)
義昭は謙信に信長の紀州攻めは失敗したから、このチャンスに北陸出兵せよと言ってる。
天正6年正月には本願寺に呼応しての先鋒を六角義堯の阿波淡路軍の堺上陸と宇喜多先鋒の毛利軍が行動している。
さらに六角に呼応して高野山金剛峯寺や大和多武峰宗徒が挙兵し、
毛利も播磨に栗屋を、淡路に児玉を派兵し三木城へ兵糧を入れる。

まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。
赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる。
上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立する元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。
10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。
義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら
対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して一斉挙兵。
摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し
本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために
天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
32 :人間七七四年[sage]:2011/05/24(火) 02:46:08.53 ID:OXxEQ/VX

ルール破りのチート超必殺技が天皇の和睦斡旋3連打だからな。
それなのに信長は天皇のご足労を仰ぎ和睦調停してもらっても
結局は自分が有利になるや豹変し調停違反して攻めるから不遜極まりない。
しかも傲慢にも自分の力で全てうまくいってると勘違いをし始めて自らを神としようなどと天に唾を吐いたから
義昭の言うように信長は天命逃れ難く自滅したんだろうな。
実際、斎藤義龍・足利義栄・毛利元就・武田信玄・上杉謙信がタイミングよく死んでくれたからうまくいったに過ぎない。
例えれば北条討伐への参陣を政宗が悩んでたら秀吉が突然死して
家康が謀反し北条と一緒に逆襲したような奇跡の連続だからな。

山城・大和両守護の塙直政が戦死して本願寺包囲瓦解寸前になっての天正4年の天王寺の戦い以降は
本願寺包囲責任者として佐久間信盛が畿内7ヶ国の大兵(三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の内で信長に従ってる者)で
天正8年の本願寺との和睦まで釘付けにされてる。
伊勢の軍も滝川や九鬼らが本願寺攻めに転用されてるし、佐久間以下は遊撃部隊とともに本願寺と共闘する紀州への征伐にも使われる。
(摂津は織田派の池田勝正が失脚し義昭派の池田知正になっていた。義昭が追放されると
知正も失脚し荒木になったが領民が織田に付くのに大反対した為に信長に謀反するハメになる)
だから謙信の上洛戦阻止には越前柴田軍を主体、
後詰めを岐阜城(7ヶ国に美濃は含まれない)の信忠しか動員できない。
しかも謙信上洛期待からの松永久秀の挙兵では
もはや織田軍に余剰兵力がまったく無いようで柴田と佐久間の兵力を抽出した信忠軍が信貴山城籠城包囲に向かっている。
信貴山城攻め後に遊撃部隊とも言うべき近江坂本城の明智・山城勝龍寺城の細川を丹波再攻撃に抽出しつつ、
毛利東進に備えて近江長浜城秀吉を播磨へ派遣する台所事情はかなり厳しい。
この後になると織田はさらに財政が厳しくなり、まったく武功がないとか昔、弟信勝と謀反したとか武田に内通したとか
いちゃもんつけて尾張美濃近江の家臣領地や水野ら同盟相手を改易しまくって召し上げた領地を
信長や信忠直轄にして織田政権の財政基盤立て直しを開始したら家臣の謀反にあって信長親子は殺され織田家は纂奪される。

本願寺包囲に多大な財政的負荷がかかり過ぎて織田政権はかなり厳しい運営をしている。
相次ぐ軍役を課せられた国人たちも戦ばかりで財政的に厳しかっただろう。
信長は天正3年末には家督を信忠に譲り美濃や尾張の直轄地を譲り安土城へ移動してる。
よって信長の本隊と言うのは存在しない。
あえて信長直轄と呼べる者なら尾張衆や母衣衆だろう。
例えば柴田が越前国主になったが佐々や前田ら府中三人衆は柴田の監視たる目付であり
越前大野郡を与えられた金森や原も信長直轄配下に近い存在だろうが
彼らは謙信上洛への越前防衛に釘付けにされてるし、
騎下として率いる国人兵力も専断権限も明智や秀吉や滝川ら部隊指揮官とは段違いに少ないだろう。
遊撃部隊の明智や細川や秀吉や滝川らは信貴山城攻撃などで信忠配下で戦ってる以上は織田の家督を継いだ信忠管轄下と見るべきだろう。
この時点で最大兵力を持つのは本願寺包囲に釘付けの佐久間信盛と見て間違いない。
謙信が死んでなければ北陸一向一揆と謙信によって近江に毘の旗が立っていたのは間違いない。
もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
33 :人間七七四年[]:2011/05/24(火) 02:52:13.54 ID:OXxEQ/VX
信長の内政や統治は具体的にどのようなことをしたのかね?

謙信は商売のために京へ行ったり、
戦乱続きで荒廃した越後でインフラ投資をして通行料無料の橋を作ったり、鉱山開発したりと
破綻していた越後経済を立て直した経済政策通だよ。
しかも永禄前期は毎年のように越後や甲斐が天候不順で相次ぐ不作などで大変だったのに。
高根金山・猿田金山(岩船郡朝日村の鳴海山にあった(本庄城(村上城)から北東20キロ地点)、
ぶどう金山(岩船郡山北町東部?) などが採掘場であったようだ。
前の2つは本庄繁長の領地にあるが、永禄十一年(1568)、謙信に反抗したため没収、以後は上杉が直轄していたと思われる。
当時の越後はまだ田んぼで稲作が主産業ではなく塩田労働者の方が多かった。
平地の集落より才浜と呼ばれた砂丘地帯の集落の方が圧倒的に人口が多く
管領細川政元の越後下向に従った冷泉為広の越後下向日記にも才浜の説明に
「里、海人多 塩ヤク」と記され塩業地帯が主産業だった。
また海上交易と金山収入もあり、農繁期が出兵の足かせになることはまったくない。
謙信が支配した直江津、柏崎 竹俣の三条 色部の岩舟
謙信は船頭前だけで年間四万貫も稼いでる
さらに其々の荷には青苧役などの税をかけてるから莫大な収入
二度の上洛で藤原北家の支配だった青苧座を越後青苧座に独立させたのが一番大きい
しこたま儲けた謙信は斉藤に命じて五年間の租税免除・夫役御免を行ってる
越後豪族が持つ港も交易が盛んになり、色部の正月なんて鰊だアワビだ数の子だ山海の珍味が山盛り
彼らが操る北国船は牛馬で行う交易の数百倍の荷を扱えた
陸路では塩、蝋、木材、紙を売らせ、春日山府中には商家が建ち並んだ
為景時代に越後から逃げた商人を呼び戻し、
彼ら商人への優遇措置、治安維持を謙信自身が制札を下し、蔵田に施行させている
この蔵田という大商人を謙信は春日山城代に命じるなど重用している
>>北陸遠征で領土を拡大し家臣に分け与えたとか
畠山尚順から為景が任じられて以来の越中東部新河郡守護代を兼ねる謙信は
天正4年末に越中において領主のいない闕所地を直轄領とし、
放生津と伏木浜を港湾自由都市にし、放生津は特に楽市化し町人の諸役を三ヵ年免除
津料、渡役も免除し都市の振興保護政策を推進している。
これを越後の港湾都市府内と柏崎の直轄化を放生津で行い
越中を越後同様に豊かにする政策だと市村氏は論じてる。
また七尾城で幼主を擁して独裁してる長続連親子を除くことは
永禄9年2月17日に野洲郡矢島御所で覚慶は足利義秋と名乗って還俗した際に
三管領家の河内国畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱と
約束した室町幕府復興のための約定の履行である。
能登に遊佐の補佐で上条政繁(上杉本の公式には能登畠山出身で謙信の養子)を配置。
七尾城落城させた謙信は畠山義隆の後室(京の三条の娘)と
その子の畠山義春(上杉本の公式)を養子に迎えて、
北陸の治安維持のために越後諸将を配置して帰っているだけ。
織田側の主張では畠山の幼君は籠城中に伝染病にかかり死んだと捏造してんだよね。
もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
34 :人間七七四年[sage]:2011/05/24(火) 02:55:07.49 ID:OXxEQ/VX

謙信の抜擢と信任を受けた新参者
織田との最前線の鎮将として能登支配の牙城七尾城将だった鯵坂長実
近江出身で古志長尾家を相続した富山城将や沼田城将を歴任した河田長親(のちに北陸方面総司令官)
安田氏の家督を相続した河田長親の弟の堅親
魚津城の戦いで死んだ近江出身の吉江資堅(子は中条の家督を相続した景泰)
河田長親に至っては謙信が署名した白紙の書状を50枚以上持っており、謙信の名で臨機応変に書状を出して命令をする権限も所持。

謙信は最初河田堅親に中条の家督を継がせようとしたが中条家中の反発が激しくて失敗したんだよ。
しかし謙信はあきらめずのちに吉江景泰を中条の家督に入れ込むことに成功したわけだ。
謙信は在地領民を掌握している国人領主は北条や本庄のように離反の危険性が高い為に
他国者を取り立てて側近官僚としてネジ込んでるんだよ。他国者だから在地領民との代々の繋がりがない官僚だな。
在地領民と領主を切り離し官僚化させて中央集権化していくのは豊臣政権になると激しくなるが、
謙信は安堵権を利用して国人領主割拠の解体を始めてる。
>>家督相続後の世襲
河田も吉江も鯵坂も重臣の地位をまったく世襲してないんだが。

それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて
2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む)
3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた)
4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定)

こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。
家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。
こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど
この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。
謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。
残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。
景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば
上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。

それに吉江景泰は中条の家督を継承したが中条の領地には一切赴任してないと言われている。
常に側近官僚としての立場で景勝の代になっても変わらなかった。ちなみにまだ18歳だった吉江景泰は7位ね。

武田はすでに信虎がかなり新人採用しまくってたから抜擢の土壌が成熟してるからね。
だいたい武田五名臣からして他国者ばかりだし。
近江出身で六角に仕えていた横田高松
美濃出身の多田満頼
下総出身の原虎胤
実在は不明だが諸国流浪の山本勘助。
そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。
原虎胤に父を討たれて駿河から流浪してきた北条綱成を採用した北条氏綱なんかも大抜擢されたよな。

もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
35 :人間七七四年[sage]:2011/05/24(火) 02:56:33.48 ID:OXxEQ/VX
河田には養子がいるのも知らんのかwそもそも岩鶴丸以外にも2人の実子と2人の養子がいたとも言われてる。
江戸時代には河田一族で本家分家争いまで起きてる。ちなみに岩鶴丸の跡を継いだのは従弟で養子の源七郎。
だが世襲してないから古志長尾氏の栖吉衆を引き継ぐことはなかった。
天正5年12月杉家家中名字尽において鯵坂長実は越中国扱いとなっており
能登国には上条政繁・直江景綱・長沢光国・平子房長らが派遣衆として能登国衆と名を連ねている。
そのために鯵坂長実は天正5年には能登国から元々の任地であった越中新庄城へ戻っており七尾城にはいなかったとされる。
(天正6年謙信死去してまもなく鯵坂長実が能登国衆から血判状を取っているのがわかる)
御館の乱では景虎派と思われる越後小千谷の国人だった平子和泉守が城代だった
能登甲山城を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているのがわかる。
もちろん鯵坂長実の親類縁者も子孫も地位の世襲などを感じさせるものは何もない。
中条へ養子に入った吉江景泰は祖父・父・兄・祖父の兄弟の息子達と共に越中魚津城で玉砕したが
(祖父はこの時に孫で中条入りした景泰に景勝に貰った領地の一部を譲渡する約束をしてる)
子の中条三盛10歳が残されており、のち景勝の会津入りにも従っているわけだが
これは越中魚津城において一族の大半が景勝のために玉砕したのを哀れんで特例で存続が許されただけ。
そもそも上杉家の家法ではどんな重臣であっても15歳に満たない後継者は領地を没収し、成人された後に継げるかどうか政治的判断される。
しかし特別な功績を挙げた場合のみ恩情が加えられる制度で働かない重臣や国人は衰退するようになっている。
例えば天正三年の「謙信軍役帳」において譜代・旗本の三条城主山吉豊守は序列はかなり低いものの景勝に次ぐ軍役を背負わされている。
35歳で死去した彼には子が無く13歳の弟しかいなかったものの叔父景久の後見を条件に
山吉豊守の多年の軍功と謙信への忠節から特別に先祖伝来の領地半分と三条城を没収されたものの家名存続のご恩を得られた。
ちなみに三条城には神余親綱が城主として治めることになった。
信長にはこんな制度もないだろうが。それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。
結局、武田や上杉って新規採用の抜擢した人材は何ら背後に
大名に利益をもたらすような利権やバックを持ってない人物ばっかだけど
信長って何らかの背後関係や勢力を持っている者しか採用抜擢してないんだよな

謙信の上洛が期待された時って
義昭追放でヘタレた本願寺と毛利も足利鞆幕府成立で決心がついてたからなー。
おかげで西国が一気に景気良くなりやがった。
義昭も三好康長や遊佐信教の籠城する本願寺の前衛たる河内高屋城や松永久秀に合流するべく一色に摂津に陣所を確保させようとしてる。
信長は義昭の息子の2才義尋を肌身離さず連れまわして奪われないように必死だし。

上洛してわずか14年で信長死亡。 細川高国政権19年や細川晴元政権18年や三好政権19年
と続いたことからわかることからわかるように京を掌握した勢力のチートぶりは凄まじく低難易度である。
しかしなぜか信長政権は非常に短命でぐちゃぐちゃにかき乱して殺戮しただけだった。
(比叡山を滅ぼしたのも財政崩壊したために比叡山や公家の荘園を略奪しまくるのが目的だったり
翌年は奈良からも脅迫して金品を上納させ、賀茂〜嵯峨や上京も焦土にして下京や寺社から金銀恐喝)
【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
878 :人間七七四年[sage]:2011/05/24(火) 06:08:11.71 ID:OXxEQ/VX
>>345>>349>>362>>363
(信玄死後の12月頃より信長はたびたび正親町天皇に譲位要求をするようになってる
また織田家では第五王子興意法親王が信長猶子となり
第五皇子の誠仁親王を主上・今上皇帝と敬称で呼んでいたほど入魂だった)
必死に毎年確実に官位をあげてきたのに天正6年1月に正二位になった後の4月に
突然、前触れもなく右大臣・右近衛大将を辞任して自分はいらないから
信忠の官位をあげて欲しいと一切の昇進も官職も拒否。
この後、二度にわたり信長の任官問題が浮上し最後には征夷大将軍・太政大臣・関白のうち
どれでも良いから任官して欲しいとまで言わせる。
そしてまさに信長から何らかの返答がくる寸前で信長は殺される。
一方で天正9年京都で大規模な馬揃えを行い朝廷を威圧。
この馬揃えの直後にも正親町天皇が譲位したいと言い出す
一方で方位神の金神に方角が悪いからと譲位の時期の先延ばしを謀る。
天正10年に入るや天皇が支配する時の支配にも信長は手を伸ばす。
金神などを論破すべく西洋の知識を使っての暦についての論争である。
安土天主において信長は濃尾の暦者と幸徳井友長を使って
朝廷の陰陽頭を論破しようとしたが近衛前久が連れてきた加茂在政に論破される。
信長はまた尾張の暦と三島の暦がずれてるからどちらが正しいか決着をつけるように言いつけていた。
本能寺の変の直前に近衛前久の太政大臣辞任が突然勃発
本能寺の時に信忠を討った際の明智軍は近衛前久邸の屋根から二条御所を攻撃している。
光秀はこの際に信忠を説得し誠仁親王を御所へ移すことに成功してる。
ちなみに信忠の官位も天正5年10月従三位左近衛中将になってから
一切昇進していないのも信長や信忠が拒否していたからだろう。
これは中国の王朝交代における有徳で天下を助けた忠義者の父
新王朝樹立させた息子の父にして祖であることを目的にしたもので
岐阜の語源である岐山より生じた周であったが
暴君の紂王の時代にはすでに周は文王が徳をもって
仁政を行いつつもあくまで殷の臣下の地位に甘んじ
子の武王によって紂王が討たれ周王朝が建国され
文王はその祖として崇められた故事の通りである。
これは曹操や司馬懿もやった典型的な王朝簒奪手法である。
信長は不遜にも自分を文公のような立場にしようとしたのか。
しかしやり方は天皇さえもすげ変え、しまいには天皇を廃止するつもりなのは明らか。
>>746
これは明らかに朝廷が光秀に教唆してるな。
【治部】石田三成総合スレ 8【佐吉】
530 :人間七七四年[]:2011/05/24(火) 17:03:22.37 ID:OXxEQ/VX
慶長12年結城秀康死去
慶長16年浅野長政・堀尾吉晴・加藤清正ら死去
(3月二条城における家康と秀頼との会見)
慶長18年池田輝政・浅野幸長←この2人が死んで完璧に詰んだ。
慶長19年5月前田利長死去だからね。
(7月方広寺鐘銘事件)
もう豊臣方は家康との間を取り持って弁護してくれるやついない無理ゲー状態。
家康としても自分が生きている間は黒田長政や細川忠興も
裏切ることはないだろうが死んだ後はどうなるかわからんからね。

毛利衰退の原因は、元就が作っている件
494 :人間七七四年[sage]:2011/05/24(火) 17:13:59.78 ID:OXxEQ/VX
どうでもいいが下記の本が面白そうだと感じました。
長州を破った男〜鴻池市兵衛〜
http://ushidon.sakura.ne.jp/bookroom3/book-edo/bookedo9.html
長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】
884 :人間七七四年[sage]:2011/05/24(火) 18:12:25.50 ID:OXxEQ/VX
>>889
>>左内の場合、出世は一族(子とも)である岡重政
また得意の捏造ですか?
岡佐内の父は岡和泉守盛俊であり、出身は若狭なので
近江の重政とは一族であるなんて説はまったくありません。
しかも重政は片岡半七岡重政と呼ばれていてもともとは片岡姓。

ひょっとしてあなたは左内の母親が石田三成の娘であるとする
直江&三成密約説の信奉者ですか?
それですら石田三成の娘を妻にしていた重政の嫡男を岡左内としていて
重政が左内の子としてはいないですが。
もちろん三成の娘と重政の年齢的ギャップでいささか無理があると思いますが。

愛宕山の慶印の助けもあって調子に乗って国見山を過ぎ桑折も過ぎ
摺上川まで渡河し瀬上も通過し、現在の松川も通過し羽黒山の麓(愛宕山)まで進出した政宗(古松川を前に見る)
しかし後方で大事件勃発(須田・岡らの行動だろう)→国見山まで政宗は大後退する。
ここで治家記録では羽黒山本陣にいたが片倉が戦局の見通しの悪さを述べたから国見山へ帰ったと捏造解説をして誤判断に誘導してみせてる。
しかしここで石川により撤退が提案がなされたようだが、
福島への街道筋に派兵して逆襲を考えていた政宗の士気に反してものすごい速さで北目城まで緊急超撤退する理由がわからない。
ここで青葉山寂光院・羽黒大権現が仙台に移設せざるおえなくなる事実が解答になるだろうね。
つまり上杉軍による羽黒山への夜間奇襲が実行され寂光院が焼き討ちを受け伊達軍が緊急撤退を余儀なくされた。
ここで治家記録でまた捏造すべく補足説明が入り
羽黒山から国見山へ戻る途中に屋代景頼に対して武功を讃えて酒杯を与え、
その後に梁川表を遠望して帰ったなどと書いてるが
屋代の武功に対する加増がその後まったくなく成立しない話である。

本当に300討ち取りしたのならハッキリと「こたびの大勝利で日頃の鬱憤を晴らせて本望」とか
「こたびの武功を政宗生涯忘れず」って部下を激賞しても良い話だろうが。
ところがテンション落ちまくりで「残すところなき手際」とし、
自らを慰めるように「心残りもあるが、時節柄これでよし」などと口惜しさ丸出し。
明らかに勝利宣言なんて解釈できねーのに歪曲したりと
常習的に伊達治家は巧みに余分な解説的補填を挟み込み
無意識にミスジャッジ誘導へ導く悪い癖がある。

もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
46 :人間七七四年[]:2011/05/24(火) 18:37:36.37 ID:OXxEQ/VX
来春には岐阜を攻めると言っている信玄に兵糧不足は考えられない。
むしろ兵糧不足してるのは義昭攻めの段階で金が尽きてる信長。
信玄撤退を知ってから京へ出撃して金を恐喝してるが
信玄が撤退しなければ、そもそも京へも出兵できない。

武田はイザとなれば北条からも兵糧の支援くらいもらえるだろう。

もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・ 2
52 :人間七七四年[]:2011/05/24(火) 19:54:06.56 ID:OXxEQ/VX
武田軍撤退の報告が来ない場合は下記への攻撃行動に移れないのは明白
義昭籠城で挙兵の山岡景友なんて義昭政権から上山城守護に任じられ
(六角氏の軍事的中核をなしていて近江湖南の旗頭と呼ばれていた)
信長が佐久間に与えた大津周辺の領土は
山岡景友の領地とかぶってるから彼の協力が無ければ支配の貫徹は無理だろう。
しかも蒲生定秀の弟の青地茂綱が森と一緒に討死したが
青地氏も六角の重臣の1人で湖東草津方面の豪族で
六角家中では山岡と並び称されていて、
その人物が討死じゃ長光寺城の柴田・安土の中川の領地支配も揺らいでる事態だわな。
撤退の報を聞き急いで京へ来るや
1568年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていた
職務を放棄し兵糧や銃や火薬を調達するために盗賊に成り下がる織田。
その金作りのせいで類火が禁裏の近くまで広がり、
万が一の時は吉田山へ逃げろとか言って天皇無視して略奪に熱中。
義昭との講和のためなら二条から上の上京を燃やすだけでなく
賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝する必要性はないよね。

安養寺や専福寺の末寺や家老の遠藤加賀守を通じて遠藤胤基などが内応して信玄の侵蝕が内々に進んでるわけだがwww。
信玄は密かに100貫の加増を遠藤加賀守に約束してるし、来春の岐阜攻略を通知し朝倉や浅井も遠藤加賀守に書状送ってる。
信長は死ぬまでこの内通を知らなかったが、もし織田と武田が野戦決戦したら致命的裏切りが発生してたろうね。
2/26に浅井が二条城の強化完成の知らせ共々
武田がさらに東美濃の加治田城・ツボ城まで手に入れたと言ってるように
信玄が生存してれば、さらに侵蝕されてただろうね。しかも浅井は朝倉もまもなく出陣すると書いてる。
もっとも朝倉と徳川は信玄の死をすぐ察知してしまったから朝倉軍の再度の出撃は先延ばしになったが。

>>朝倉軍の再出撃は既に行われていたと思うぞ
朝倉の書状で既に小谷に先発隊が入って普請を行っている事があり、
義景自身も敦賀にまで出陣して5月まで在陣してる

伊賀国衆は北畠支援で具房の母は六角氏で北畠政成の妻は松永久秀なので大和国人も援助していて反織田側
野田城を落とした武田軍が吉田城か岡崎城のどちらかを攻略する時は北畠の援軍がやってくるようだな。
武田軍が岡崎城へ進めば、いよいよ信長は義昭や浅井朝倉や六角が気になって岐阜から離れられなくなるし
吉田城へ行けば家康は浜崎城に孤立し降伏以外に道がないな。
しかも京を奪回しないと金策もできないし天皇に土下座して和睦依頼できないし
信長は志賀の陣での和睦を破って浅井攻めを開始さて約定破りの前科があるし・・・もう信長つんでるじゃんw


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。