- 戦国ちょっといい話26
772 :人間七七四年[sage]:2011/05/23(月) 11:30:39.39 ID:mqf8o2ov - 永禄年間(1558〜70)、伊予の河野通直は、安芸・毛利氏の拡大に対抗するため
豊後の大友義鑑(宗麟)と同盟した。 さてその頃、鉄砲の技術の先進地といえば永正よりこのかた、豊後大友家だとされていた。 そのため河野通直は友好関係を利用し大友家に頼み豊後府中より鉄砲技術者を派遣してもらい、 家中の者たちに煙硝の採取の仕方、弾薬の製造方法などを学ばせ、火器を大量に生産した。 この鉄砲の大量装備により河野家の防衛力は格段に強化され、その鉄砲術は 「河野流」として東国まで響き渡ったという。 しかして、瀬戸内海で中国、九州と面する長い海岸線を持つ伊予において、 その海邊を守るには鉄砲の砲弾を大きくすること、すなわち大筒の製造こそ 最も効果があると、当時の河野家は考えた。 ではあるが、ノウハウが無い以上すぐに大筒を作ることは無理である。 そのため河野家は大筒製造のため様々な研究を始めた。 ところで河野家が考えたのは、木の砲身の大筒であった。おそらく金属の砲身を作るような 鋳造技術がなかったためであろう。 まず、松の生木を繰り抜いて砲とし、これに金輪をはめてしっかりと固め、 この砲径に合わせた弾丸を作り弾薬を調合して発射実験を行った。 が、これは弾丸を撃ち出すと必ず砲身も破裂し、とても実用に堪えるものではなかった。 次に、同じく松の砲身を今度は縄で巻いた物で試したが、やはり砲身は壊れた。 このように様々な実験を繰り返したものの、どれも上手く行かなかった。 そんな時、ある者が工夫をなして、竹の輪を作って砲身を桶のようにせめ懸けて固め、 これで弾丸を発射。何と、これだと木筒は破損せず弾丸は無事発射された。 この事を喜んだ河野家は、さらに木筒の技術研究を薦め、その運用術も様々に実験した。 そして海邊にこれを多く設置し、敵船が攻め上がってくれば間近まで引きつけた上で 高楼より下に向かってこの大筒を発射。これに当たればいかなる大艦もたちどころに 破壊され、河野の大筒の威力に敵はあえて伊予の海邊に近づこうとしなかったという。 豫州河野家、木鉄砲のおはなし。 (南海治乱記)
| - で、戦国最強の忍者集団はどこなんだ?
204 : 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 [sage]:2011/05/23(月) 11:31:29.40 ID:mqf8o2ov - t
| - で、戦国最強の忍者集団はどこなんだ?
206 : 忍法帖【Lv=11,xxxPT】 [sage]:2011/05/23(月) 17:06:03.63 ID:mqf8o2ov - てすと
|
|