- 【治部】石田三成総合スレ 8【佐吉】
458 :人間七七四年[]:2011/05/21(土) 00:33:30.25 ID:WjsTCjTj - いやいや伏見攻撃やってんだから旗翻は明らかに西軍でしょ。
実際には万が一の保険を東西双方の大半の大名がやってたと思うよ。 だから内応交渉してたから東軍なんて主張は意味が無くて、公での旗翻で見るべきでしょ。 だいたい最初から小早川が東軍なら何で、あんな危険な位置に大谷が布陣していて しかも早期に小早川排除に動かないのか不明だし 小早川の先鋒は西軍側の松野主馬なんだから、秀秋が東軍なら松野なんて連れて来ないし、さっさと排除してるでしょ。 実際に秀秋は傍観者を決め込み家康から派遣された奥平貞治から再三に渡る出陣依頼も拒否しまくりだったわけだし 東軍に参戦と決まり、松野が怒って出奔した後に小早川先鋒を指揮する人間がいなくて 結局、奥平が指揮を引き受けて下山するも後続が続かなくて大谷に苦戦した挙げ句に 奥平はのちに死ぬほどの致命傷を受けてるじゃん。 最終局面で赤座・脇坂・朽木・小川が裏切り大谷を攻めなければ奥平は討ち死にしてた。 小早川軍が当初から東軍なんて言えないでしょ。 >>西軍の伊藤を叩き出して松尾山に布陣 それって春日局のダンナの武功を捏造するために書かれた後世編纂の三次史料だよ? 吉継が秀秋を2回にも渡って会談して暗殺しようとするんだよ? 史学にはそんなもん堂々と載せてるやついないから。 三成も当日は小早川に山を見張って動かなくていいからって言ってるだけだし 三成から増田への12日書状で松尾には中国勢をいれ敵陣は20日のうちに破るって書いてるから 秀家か毛利か小早川が寡兵の伊藤に代わって防備するのは不思議な話じゃない。 つうかそもそも伊東は本当に松尾にいたのかどうかも怪しい。 >>関ヶ原に転進したのは14日夜〜15日 小早川は14日の太陽が照ってる時間には移動完了してるし 大谷や毛利や秀家に至ってはもっと前からいたし、はっきりした敵認定してるってんなら 大津城攻撃隊の一部を転用してでも早期に除くだろ。なんで放置してんの? >>松野の戦場離脱は大谷が寄騎の裏切りをつかめてなかった そう主張してないだろ・・・松野が先鋒してるんだから最初から小早川が東軍と決めていたわけじゃないと言ってるだろ。 みんなある程度はお家存続のために東西両軍に唾つけてるって再三にわたり言ってんだが? それに三成も味方中の心中も計り難いと言ってるわけだが?小早川に三成は動かなくて良いって言ってたから事実動かなかったし、 様子見して戦況を眺めていたからだいぶ傍観してて小早川参戦は正午を回ってからだよ? 早朝の濃霧があけ始めて開戦してからかなり経過してるまで動いてない。 そもそも決戦なんて両軍とも考えてなかった。家康は豊臣恩顧に武功を立ててもらいたくはなく秀忠軍を待っていたんだし、 真田信之にも大垣城を水攻めにする予定だと言っているなど早期決戦を想定してなかったし (戦後の武断派の大封により早期に豊臣滅亡が出来なくなったし、千姫を秀頼に嫁がせる約束も履行させられた) 三成も大垣〜関が原で最低でも20日以上は対陣をするつもりで関が原予定戦場の高地に土木造成をしていた。 もう少し待てば丹後田辺城攻略部隊や大津城攻略部隊の合流もできたし。 しかし中国勢を佐和山に派遣する前に急遽、自分の家族のいる佐和山城を家康が攻める可能性が生じ 危惧を抱いた三成が大垣城を出陣して決戦を勝手に始めたに過ぎない。 毛利秀元が吉川広家のバカの言うことを聞かずに東軍に突っ込んでいたら小早川の様子見は成立せず、西軍の圧勝だった。
|
- もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・
967 :人間七七四年[]:2011/05/21(土) 00:43:01.48 ID:WjsTCjTj - >>960
織田信長は日本最高の過大評価6 の続きをもう立てるなと連呼して哀願していた織田厨の姿は 志賀の陣で朝倉に土下座していた姿を彷彿とさせる。
|
- 長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】
848 :人間七七四年[sage]:2011/05/21(土) 01:52:26.09 ID:WjsTCjTj - >>847 明らかに伊達厨なのにワロタw
横田大学が内応した証拠がないのに意地でも横田大学の内応が露見したから 伊達は撤退したとする伊達治家記録の妄想ストーリーを強弁。 そもそも>>815の指摘の通り、 家康は4日付け書状を読んで最上表の戦況から上杉討伐の宣言をしており、 8日に政宗はあくまで自称の戦果を家康に報告してる。 その上杉討伐の意思が180度豹変し上杉との和睦を申し出るのは 14日政宗書状を持参した宗薫の口から家康が 松川の戦いの戦況を聞いてからとしか思えないんだよな。 そして政宗も宗薫へ持たせた家康への19日書状の段階では 15万石でもいいから堪忍分でと弱気になっており さらに大坂で秀頼に仕えていた長男秀宗の切り捨てつつ 前年12月に生まれたばかりの赤子の忠宗との縁談話を申し込んで家康に必死に媚び諂っている。 家康24日付書状では8日付政宗書状での数多討ったと言う 政宗を褒めて欺きながら実は数日前から上杉との和睦交渉に入ってる。 9/29の政宗が宗薫に託した家康への書状では 最上が滅ばなかったのは伊達のおかげ・秀康と伊達による上杉挟撃要望 南部が謀反気味だから家康の為に俺が脅して仙北への後詰めを命じたなどと もはや松川の勝利にまったく触れずに、 南部や最上を貶しつつ伊達の捏造功績を持ち出している。 この時点で戦後処理の方針が決定しているので 11月以降の上杉と伊達の勝敗ってのは家康の方針になんら影響を与えていない。 結局、松川の勝敗結果だけで家康は奥羽仕置きを決定した。 最上表での戦況有利と見た家康の上杉征伐の意思から 突如として和睦へ方針変更決定への思考上の参考にされたのは 8日の政宗書状「数多被討捕りしたこと」の真偽 14日に政宗が宗薫に託した書状「福島へ動仕、得大利申候」の真偽 政宗の上記の2通と宗薫の商人情報網と諜報の鷹司からの戦況報告の吟味だろう。 それらを分析した結果、政宗への不信から上杉との和睦交渉を政宗に隠蔽しつつ交渉する家康。 19日に政宗が宗薫に託した書状は上洛中の家康へ届くタイムラグを考えれば考慮外だろう。 なんせ10月23日付安田吉親あて直江書状の時点で すでに家康→上杉へ和睦の意向がすでに届いていることが確認できる。 「佐竹口より働き、江戸より無事の内証候に付き、相止め候」 「佐竹口からの働きは、江戸より無事の内証があったので、中止しました」 あきらかに政宗が松川で大敗してるのが明白ですが何か?
|
- もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・
970 :人間七七四年[sage]:2011/05/21(土) 02:17:08.70 ID:WjsTCjTj - >>968
5万なんて動かせるわけないじゃないか>>851を読んで勉強してください。 義昭は三好三人衆を許してるのも知らんのか? しかも義昭が修理した山城淀城には石成友通を入れてる。 つまり三好最前線ってのはね。 三好康長&篠原自遁&大和守が12月には桂川を前にした 長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、 桂川を渡河した西京エリアとも言うべき淀城には石成友通がいて 京の西側はすでに三好勢力になってるわけだよ。 細川幽斎がどんなにがんばっても単独ではとてもじゃないが 三好と義昭の挟撃は防げないから勝龍寺城を放棄して 義昭討伐に来た信長と合流したんだろうねぇ。 今の奈良市北に位置する大和多聞山城の松永久秀ももちろん義昭側だからね。
|
- 【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
808 :人間七七四年[]:2011/05/21(土) 02:31:17.88 ID:WjsTCjTj - まぁ逆に磯野員昌が津田信澄を養子にした後に追放され
高島郡を磯野から没収したことを考えたら 光秀もいづれは追放され信澄にすべてを奪われる危惧は抱くわな。 北畠一族が謀殺されまくったことを考えれば恐ろしいよな。 秀吉の中国戦線指揮官に対して 自分は長宗我部を傘下に加えて四国征伐やろうとしてたら 秀吉が三好を調略して一転して長宗我部は討伐対象にされたら 光秀用済みじゃん。 しかも丹波丹後制圧完了後に但馬攻めをやろうとしたら 秀吉が機先を制して秀長を派遣して但馬まで制圧して因幡攻めし始めるし。 それら秀吉の越権行為を信長は是認して光秀を軽んじてる。 そこに朝廷が吉田神社を使って助け船を出したら乗るだろう。
|
- もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・
972 :人間七七四年[]:2011/05/21(土) 02:33:31.95 ID:WjsTCjTj - >>971
あんな織田厨の自演スレなんて 馬鹿馬鹿しくてバカしか見てねーよ。 どうやって5万動員できるのか 説明してみせろよwww無理だけどwww
|
- 島津義弘を有名にした木崎原の戦い
293 :人間七七四年[sage]:2011/05/21(土) 02:36:50.28 ID:WjsTCjTj -
薩摩28万石 大隅17万石 日向12万石 明らかに薩摩の国力は他を圧倒してます。 よって島津が寡兵で勝ち続けたと言うのは捏造です。ありがとうございました。
|
- 【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
810 :人間七七四年[]:2011/05/21(土) 02:51:36.55 ID:WjsTCjTj - 柴田に越前を任せた時も「預け置く」だけで
きっちり前田や佐々や不破ら目付けをつけて監視させてる。 しかも織田重鎮の佐久間追放の時に 「一国を治めながら何の功績もない柴田も、 このままではヤバイと思って去年やっと加賀を攻略した」 などと言ってて、加賀を攻略してなかったら柴田も佐久間と同じ末路になっていた可能性が高い。 柴田にとっては謙信が死んで越後大乱になって助かった以外の何物でもない。 そして柴田も上杉滅亡後にリストラされる危険性があったから 本能寺の変は内心では歓迎できる事件だったろう。 なんせ柴田には林と同じ罪状で追放できるという恐ろしい口実がある。 せめて信長の子を養子にでもして柴田家を継がせるしか生きる道はない。
|
- もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・
989 :人間七七四年[sage]:2011/05/21(土) 15:44:35.94 ID:WjsTCjTj -
そういえば岡崎の信康と水野信元は信玄と内通してたっぽいしね。 浜松派閥の華やかな武功に対して岡崎派閥は内治の地味な仕事ばかりで反発してたと言うし。 謙信が生きてて越前乱入が開始され毛利7万を播磨で抑える兵力が信長にはなかったから完全に破滅してたよね。 北条も謙信が上洛戦をするなら北条軍も援軍に出すから連れていってとお願いしてきてたし。 天正4年の8月前後に義昭によって北条・武田・上杉の同盟の形ができてきてた。 天正5年4月には義昭が島津にも北条・武田・上杉が同盟したので上洛戦やるから協力せよと言ってる。 義昭が上洛戦として本願寺に呼応しての先鋒を六角義堯の阿波淡路軍の堺上陸と宇喜多先鋒の毛利軍を考えていた。 さらに六角に呼応して高野山金剛峯寺や大和多武峰宗徒が挙兵し、 毛利も播磨に栗屋を、淡路に児玉を派兵し三木城へ兵糧を入れる。 この大規模作戦発動が近いために信長の紀州攻めは途中切り上げの中途半端な講和で引き上げており (固執してると退路がふさがれる) 義昭は謙信に信長の紀州攻めは失敗したから、このチャンスに北陸出兵せよと言ってる。 まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。 赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。 謙信死すと備えていた信忠の大軍が播磨へ移動してくる。 上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが 7月元就死後に隆景と対立する元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。 10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば 小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。 義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で 有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら 対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して一斉挙兵。 摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し 本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい 相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。 がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために 天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて 輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。 信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し 高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。 これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。
|
- もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・
990 :人間七七四年[sage]:2011/05/21(土) 15:47:08.45 ID:WjsTCjTj - ルール破りのチート超必殺技が天皇の和睦斡旋3連打だからな。
それなのに信長は天皇のご足労を仰ぎ和睦調停してもらっても 結局は自分が有利になるや豹変し調停違反して攻めるから不遜極まりない。 しかも傲慢にも自分の力で全てうまくいってると勘違いをし始めて自らを神としようなどと天に唾を吐いたから 義昭の言うように信長は天命逃れ難く自滅したんだろうな。 実際、斎藤義龍・足利義栄・毛利元就・武田信玄・上杉謙信がタイミングよく死んでくれたからうまくいったに過ぎない。 例えれば北条討伐への参陣を政宗が悩んでたら秀吉が突然死して 家康が謀反し北条と一緒に逆襲したような奇跡の連続だからな。 山城・大和両守護の塙直政が戦死して本願寺包囲瓦解寸前になっての天正4年の天王寺の戦い以降は 本願寺包囲責任者として佐久間信盛が畿内7ヶ国の大兵(三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の内で信長に従ってる者)で 天正8年の本願寺との和睦まで釘付けにされてる。 伊勢の軍も滝川や九鬼らが本願寺攻めに転用されてるし、佐久間以下は遊撃部隊とともに本願寺と共闘する紀州への征伐にも使われる。 (摂津は織田派の池田勝正が失脚し義昭派の池田知正になっていた。義昭が追放されると 知正も失脚し荒木になったが領民が織田に付くのに大反対した為に信長に謀反するハメになる) だから謙信の上洛戦阻止には越前柴田軍を主体、 後詰めを岐阜城(7ヶ国に美濃は含まれない)の信忠しか動員できない。 しかも謙信上洛期待からの松永久秀の挙兵では もはや織田軍に余剰兵力がまったく無いようで柴田と佐久間の兵力を抽出した信忠軍が信貴山城籠城包囲に向かっている。 信貴山城攻め後に遊撃部隊とも言うべき近江坂本城の明智・山城勝龍寺城の細川を丹波再攻撃に抽出しつつ、 毛利東進に備えて近江長浜城秀吉を播磨へ派遣する台所事情はかなり厳しい。 この後になると織田はさらに財政が厳しくなり、まったく武功がないとか昔、弟信勝と謀反したとか武田に内通したとか いちゃもんつけて尾張美濃近江の家臣領地や水野ら同盟相手を改易しまくって召し上げた領地を 信長や信忠直轄にして織田政権の財政基盤立て直しを開始したら家臣の謀反にあって信長親子は殺され織田家は纂奪される。 本願寺包囲に多大な財政的負荷がかかり過ぎて織田政権はかなり厳しい運営をしている。 相次ぐ軍役を課せられた国人たちも戦ばかりで財政的に厳しかっただろう。 信長は天正3年末には家督を信忠に譲り美濃や尾張の直轄地を譲り安土城へ移動してる。 よって信長の本隊と言うのは存在しない。 あえて信長直轄と呼べる者なら尾張衆や母衣衆だろう。 例えば柴田が越前国主になったが佐々や前田ら府中三人衆は柴田の監視たる目付であり 越前大野郡を与えられた金森や原も信長直轄配下に近い存在だろうが 彼らは謙信上洛への越前防衛に釘付けにされてるし、 騎下として率いる国人兵力も専断権限も明智や秀吉や滝川ら部隊指揮官とは段違いに少ないだろう。 遊撃部隊の明智や細川や秀吉や滝川らは信貴山城攻撃などで信忠配下で戦ってる以上は織田の家督を継いだ信忠管轄下と見るべきだろう。 この時点で最大兵力を持つのは本願寺包囲に釘付けの佐久間信盛と見て間違いない。 謙信が死んでなければ北陸一向一揆と謙信によって近江に毘の旗が立っていたのは間違いない。
|
- もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・
992 :人間七七四年[sage]:2011/05/21(土) 15:51:53.65 ID:WjsTCjTj -
謙信の抜擢と信任を受けた新参者 織田との最前線の鎮将として能登支配の牙城七尾城将だった鯵坂長実 近江出身で古志長尾家を相続した富山城将や沼田城将を歴任した河田長親(のちに北陸方面総司令官) 安田氏の家督を相続した河田長親の弟の堅親 魚津城の戦いで死んだ近江出身の吉江資堅(子は中条の家督を相続した景泰) 河田長親に至っては謙信が署名した白紙の書状を50枚以上持っており、謙信の名で臨機応変に書状を出して命令をする権限も所持。 謙信は最初河田堅親に中条の家督を継がせようとしたが中条家中の反発が激しくて失敗したんだよ。 しかし謙信はあきらめずのちに吉江景泰を中条の家督に入れ込むことに成功したわけだ。 謙信は在地領民を掌握している国人領主は北条や本庄のように離反の危険性が高い為に 他国者を取り立てて側近官僚としてネジ込んでるんだよ。他国者だから在地領民との代々の繋がりがない官僚だな。 在地領民と領主を切り離し官僚化させて中央集権化していくのは豊臣政権になると激しくなるが、 謙信は安堵権を利用して国人領主割拠の解体を始めてる。 >>家督相続後の世襲 河田も吉江も鯵坂も重臣の地位をまったく世襲してないんだが。 それに天正3年軍役帳において後継者の1位の景勝に続いて 2位 山浦上杉国清(養子として信濃村上国清をネジ込む) 3位 上条上杉景信(この古志長尾景信のこと。こいつの跡を河田長親が継ぐ予定ですでに古志衆が付けられていた) 4位 上条上杉政繁(能登畠山氏の出説あり。この後は能登畠山義春が継ぐ予定) こんな感じで家格の序列で在地領主権のない他国者が上位になるように仕向けられてる。 家中と在地領主権の改革が実行されてるのは明白なんだけど。 こういう在地領主には不利益になることを実行してた時期の上杉軍はいまいち奮わなかったけど この天正3年の家格序列を基礎とした軍役をかけてからの上杉軍は異常に強い軍になって北陸制圧までしてる。 謙信がもうちょっと長く生きていたら完全に官僚化がなされていたよ。 残念だったのが上杉景信が謙信より長生きしてしまったことか。 景信から河田への古志長尾の反発を抑え込んでの継承が完遂していれば 上田長尾との対立の歴史が消え御館の乱の勃発を防げていた。 それに吉江景泰は中条の家督を継承したが中条の領地には一切赴任してないと言われている。 常に側近官僚としての立場で景勝の代になっても変わらなかった。ちなみにまだ18歳だった吉江景泰は7位ね。 武田はすでに信虎がかなり新人採用しまくってたから抜擢の土壌が成熟してるからね。 だいたい武田五名臣からして他国者ばかりだし。 近江出身で六角に仕えていた横田高松 美濃出身の多田満頼 下総出身の原虎胤 実在は不明だが諸国流浪の山本勘助。 そういや信玄が抜擢した春日改め高坂弾正は単なる百姓の子だったよな。 原虎胤に父を討たれて駿河から流浪してきた北条綱成を採用した北条氏綱なんかも大抜擢されたよな。
|
- もし武田信玄が死なずに西上を続けていたら・・・
993 :人間七七四年[sage]:2011/05/21(土) 15:53:24.20 ID:WjsTCjTj -
河田には養子がいるのも知らんのかwww そもそも岩鶴丸以外にも2人の実子と2人の養子がいたとも言われてる。 江戸時代には河田一族で本家分家争いまで起きてる。 ちなみに岩鶴丸の跡を継いだのは従弟で養子の源七郎。 だが世襲してないから古志長尾氏の栖吉衆を引き継ぐことはなかった。 天正5年12月杉家家中名字尽において鯵坂長実は越中国扱いとなっており 能登国には上条政繁・直江景綱・長沢光国・平子房長らが派遣衆として能登国衆と名を連ねている。 そのために鯵坂長実は天正5年には能登国から元々の任地であった越中新庄城へ戻っており七尾城にはいなかったとされる。 (天正6年謙信死去してまもなく鯵坂長実が能登国衆から血判状を取っているのがわかる) 御館の乱では景虎派と思われる越後小千谷の国人だった平子和泉守が城代だった 能登甲山城を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているのがわかる。 もちろん鯵坂長実の親類縁者も子孫も地位の世襲などを感じさせるものは何もない。 中条へ養子に入った吉江景泰は祖父・父・兄・祖父の兄弟の息子達と共に越中魚津城で玉砕したが (祖父はこの時に孫で中条入りした景泰に景勝に貰った領地の一部を譲渡する約束をしてる) 子の中条三盛10歳が残されており、のち景勝の会津入りにも従っているわけだが これは越中魚津城において一族の大半が景勝のために玉砕したのを哀れんで特例で存続が許されただけ。 そもそも上杉家の家法ではどんな重臣であっても15歳に満たない後継者は領地を没収し、成人された後に継げるかどうか政治的判断される。 しかし特別な功績を挙げた場合のみ恩情が加えられる制度で働かない重臣や国人は衰退するようになっている。 例えば天正三年の「謙信軍役帳」において譜代・旗本の三条城主山吉豊守は序列はかなり低いものの景勝に次ぐ軍役を背負わされている。 35歳で死去した彼には子が無く13歳の弟しかいなかったものの叔父景久の後見を条件に 山吉豊守の多年の軍功と謙信への忠節から特別に先祖伝来の領地半分と三条城を没収されたものの家名存続のご恩を得られた。 ちなみに三条城には神余親綱が城主として治めることになった。 信長にはこんな制度もないだろうが。 それなのに信長が中央集権を目指したとかありえねーから。 結局、武田や上杉って新規採用の抜擢した人材は何ら背後に 大名に利益をもたらすような利権やバックを持ってない人物ばっかだけど 信長って何らかの背後関係や勢力を持っている者しか採用抜擢してないんだよな
|
- 【治部】石田三成総合スレ 8【佐吉】
470 :人間七七四年[sage]:2011/05/21(土) 17:39:39.74 ID:WjsTCjTj - 他の南宮勢である長宗我部盛親・長束正家などが
安国寺恵瓊ともども広家の陣に銃撃を加えてやればよかったものを。
|
- 【本能寺の変】明智光秀/惟任日向守を語る2
826 :人間七七四年[sage]:2011/05/21(土) 17:46:16.52 ID:WjsTCjTj - まぁ学者はある時期からみんな朝廷説を唱えなくなった。
なんらかの圧力があったのだろう。 一説に徳川慶喜が上院議長就任する大政奉還後の構想を 王政復古の邪魔だとして朝廷が坂本を暗殺したから 下手人も殺害動機も追及される不明になったといわれているし。
|