- 戦国ちょっといい話26
250 :人間七七四年[sage]:2011/04/28(木) 00:10:13.65 ID:oSW6eTyZ - 天正13年(1585)9月13日の事だという。
その頃越後の上杉景勝は、新発田重家の乱への対処の真っ最中であり、新発田重家の伯父である 新発田刑部左衛門尉の籠る新潟城を攻めるため蒲原郡へと向かっていたが、秀吉の軍勢が越中に 入ったということを聞き、 「羽柴とは対佐々成政のため起請文を交わし好を通じた仲だが、乱れたる世の人心、計り難し」 と、その行く先を変え秀吉の軍への警戒のため、8600の軍勢で越中越後の境である糸魚川の城に 陣を張った。 さて一方、越後落水城の須賀修理の元に、かねてより秀吉から上杉との連絡役をしていた 木村弥一右衛門尉清久よりの使者が訪れた 『上杉殿へ秀吉の使いとして、木村がここまで参りました。須賀殿にお会いして申し上げたいことがあります。』 これを見た須賀修理は早速、かねてより木村の旅館としていた落水城下の商人の家へと向かった。 ところがそこに居たのは 「わしは羽柴筑前守秀吉である!」 今や天下人への路を駆け上がっている、羽柴秀吉本人であった。 須賀は当然のことながら驚愕した。秀吉はそんなことは放っておいて言う 「わしは景勝に会い申すべき事があってここまで来たのだ。春日山に向かうので案内人を出せ。」 このころ須賀は漸く落ち着きを取り戻し、周りを観察する余裕を持った。 それにしても秀吉一行の数の少なさはどうであろう。実際にこの時秀吉が率いていたのは木村清久と 石田三成の二騎に、雑兵が38人だけだった、という。 須賀は秀吉に申し上げた 「この須賀修理、不肖の身ではありますが、私がここにいる以上、景勝に申し上げたいことがあるのでしたら 私が先ず承り、その上で景勝に申し伝えます。 いかに羽柴殿とは言え、ここをたやすく通すようなことは、かないませぬぞ!」 秀吉これに 「されば早馬を出して、景勝にこういう事になっていると申せ!この秀吉が言いたいことは、お前などが聞くべき 事ではないわ!」 そこで須賀は早速早馬を出し、その上で秀吉一行を落水城中へ入れ、そこで様々に饗応した。 さて、景勝の陣していた場所は落合城からごく近かったため、須賀の早馬はすぐに届いた。 景勝への書状の内容は、秀吉が突然現れたことを伝えた上で『もし秀吉を討つのであればそちらの加勢も 必要ありません。私の一手で討ち取ってみせます。』とあった。 景勝はそれを聞き 「天下の権を今や一手に握る秀吉が、今の戦国の中、多くの難所を越えてやって来たのは、 一つは去年の盟約を違えぬよう、景勝と好を結ぶため、今一つはこの景勝が正しい行いをすると信じての事だ。 それに彼を闇々と討ってしまうというのは、この景勝が居間まで正しく取ってきた弓矢の名を汚す事である。 もはやこの景勝が取りうる道は、参会して秀吉の望みどおりに親しくなるか、そうでなければ先ずこの度は 秀吉を帰し、改めて軍を起こして勝負を決するか、そのどちらかである!」 そして景勝は直江山城守(兼続)、藤田能登守(信吉)、泉澤河内守(年親)、安田河内守(堅親)ら、 侍分が12騎、徒歩武者60人余りという少人数で、その日午の刻(正午ごろ)落合城に現れ秀吉と対面。 その後秀吉と景勝は、それぞれ側に石田三成、直江兼続だけを置き、二時あまり(約4時間)密談をした。 秀吉の十八番、突然の訪問IN上杉景勝、のお話。
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- 【信盛・正勝】佐久間一族を語る2【盛政・盛重】
57 :人間七七四年[sage]:2011/04/28(木) 16:54:39.65 ID:oSW6eTyZ - 佐久間信盛の場合は、信長による機内佐久間軍団の解体、光秀への委任が、
そのまま本能寺につながるからな。
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- 【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
342 :人間七七四年[sage]:2011/04/28(木) 18:36:54.99 ID:oSW6eTyZ - >>341
お前が来るべきはここじゃなくてカウンセラーのところだ
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