- で、戦国最強の忍者集団はどこなんだ?
82 :人間七七四年[sage]:2011/04/16(土) 00:14:35.14 ID:W2diQyFL - テスト
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- で、戦国最強の忍者集団はどこなんだ?
83 : 忍法帖【Lv=13,xxxPT】 [sage]:2011/04/16(土) 00:17:00.47 ID:W2diQyFL - て
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- 戦国ちょっと悪い話25
692 :人間七七四年[sage]:2011/04/16(土) 09:51:24.16 ID:W2diQyFL - http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1400.htmlのちょっと詳しい内容
文禄5年(1596)7月13月、伏見大地震が起る。 この混乱がやや落ち着くと、前田利長は父利家を自身の地震小屋(仮設の邸宅)に迎え 振る舞いをした。 …と、利家、その振る舞いから戻ってくると激しく機嫌が悪い。 利長の地震小屋の作事が殊の外見事だったのが全く気に入らなかったのだ。 利家は家臣たちにわめき散らし、さらに岡田長右衛門、斉藤刑部を利長に使いとして出した。 その内容はこうである 『地震小屋などというものは、いかにも軽々として、住むのに問題がなければそれでいいのだ! そんな物に銀箔など、まるで必要のないものである! 金銀をそういいった意味のない事に浪費していれば、むやみに無理なことを言うようになり、 人のものさえ欲しがるようになる。 だいたい侍というものは、山が崩れようが海が埋まろうが驚かないものである。 ましてや孫四郎(利長)は一国の主である!であればどんな事であっても漏らさず 心にかけておくべきなのに、武具や馬などといった事には余り聞こえてくる話もなく、 毎日鷹狩、もしくは三味線ばかりで遊び呆けておる。沙汰の限りである! いいか、日本で孫四郎は一国の主なのだから、選ばれた66人のうちの一人であるのだぞ! そうであるのに全ての行いが沙汰の限りだ!』 と、その後にもこのような叱責が延々続いたそうである。 前田利家が息子利長への不満をついにぶちまけた、というおはなし。
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- 【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ15【東軍】
943 :人間七七四年[sage]:2011/04/16(土) 10:00:34.86 ID:W2diQyFL - >>940
『信長革命 「安土幕府」の衝撃』なんてもう、タイトルだけで読む気100%失せたしなw
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- 戦国ちょっといい話26
5 :人間七七四年[sage]:2011/04/16(土) 12:40:56.36 ID:W2diQyFL - 徳川家康が関東に入国することが決まると、内々に家臣の知行割の作業が行われた。
ある近習衆が、家中において武勇名高く、後に徳川十六神将にも数えられる 内藤四郎左衛門(正成)にこの事を語った。 内藤、それを聞いて尋ねるに 「最初に誰の知行が決まったのか?」 「はい、最初は貴殿に五千石と決まったようです」 これを聞いて内藤、 「ふむ、過分なることよ」 と、まんざらでもない様子。 「他には誰の知行が決まったのかな?」 「は、同じく五千石で高木主水(清秀)殿、牧野半右衛門(康成)殿、阿部善右衛門(正勝)殿…」 みな徳川家中の錚々たる武功の士である。内藤これを聞いてさらに 「いかにもいかにも、御尤もである」 と喜んだ。 が、この近習の者さらに 「同じく五千石でその次に誰、その次に誰々…」 「ち、ちょっとまて!」 内藤、突然顔色を変え 「高木などと同様の知行を賜るのだから、五千石というのは武功の優れたるものばかりだと思ったのに、 何だその後の連中は!? さてさて、殿は男数寄をなさることだ!(歪んだ形の茶道具を愛でるように欠陥のある者にも知行を与える、ということか) ええい、面白くない!」 と、領地である武州羽山に引き籠り、剃髪して善想と名乗った、という。 こうして、家康の知行割に不満で引退した内藤であったが、家康は内藤の行動を許し、 その後も武蔵において鷹狩をするときは、必ず羽山の内藤の屋敷に立ち寄り、 鷹狩の獲物の鳥を手ずから与え、そこで食事をとり、彼の妻にも会い声をかけていたそうである。 領地より誇り、という内藤正成の矜持と、そんな内藤を仕方のない奴だと苦笑いしつつも、 その気質を愛していた家康の姿が見えてくるような、そんな逸話である。
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- 【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
255 :人間七七四年[sage]:2011/04/16(土) 18:02:03.57 ID:W2diQyFL - 残念ながら二人とも人間です
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