- スペインが戦国日本を植民地化しようと攻めてきたら
579 :人間七七四年[]:2011/04/06(水) 13:43:44.61 ID:9+ht0Uj8 - >>CSYAnzai
第一次ウィーン包囲の際のハプスブルク家側の 兵力が5万以上いた件についてもソースだせ! ハプスブルク君主国(ハプスブルク家を君主に 戴く国々)がオスマントルコに最後まで征服 されなかったという歴史からもハプスブルク 君主国の強さがわかる。(ビザンチンやハンガ リーなどは征服されている。)
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580 :人間七七四年[]:2011/04/06(水) 15:41:50.95 ID:9+ht0Uj8 - 神聖ローマ帝国(ドイツ王国)って王権が弱く、
諸侯の力が強いんで、なんでなんとなく弱いよう に誤解しているけど、外部勢力によるヨーロッパ への侵略に際しての防波堤となっている。 古代マジャール人の侵略にしても、中世モンゴル人 の侵略にしても、そして近世オスマントルコによる 侵略にしても神聖ローマ帝国(ドイツ王国)が防波堤 の役割を果たしている。
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581 :人間七七四年[]:2011/04/06(水) 16:12:19.07 ID:9+ht0Uj8 - ワールシュタットの戦いに敗れたカトリック圏はオゴタイハン
の急死により救われた、と日本では言われているが、事実は違う。 モンゴル軍総大将のバトゥは、結局モンゴルには帰還せず キプチャック平原にジョチ・ウルスを建国し、近隣の支配をし 続けている。 (いわゆるタタールのくびき) その間にもポーランドには 2度にわたり侵略をおこなった. (1259〜60年、1287〜88年) 2度目の侵略は、クラクフ市近郊でドイツ人の東方植民により強化された ポーランド軍により阻まれ、以後西欧への侵略をあきらめている。
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582 :人間七七四年[]:2011/04/06(水) 16:15:51.58 ID:9+ht0Uj8 - 蒙古軍はドイツ兵を恐れていた
ドーソンによると、ハンガリーにおいても、エステルゴムの内城 Albe-Julie Saint-Martinの三城は陥落せず、本国よりオゴタイ 崩御の報を得て囲みを解いたという。これとは別に蒙古軍は オーストリアに侵寇し、ウィーン南部のノイシュタイン城を包囲した。 この攻城戦は、『ローマ帝国衰亡史』のエドワード・ギボンが次の ように叙述している。 一方タタール人の側もフランク人(ドイツ人)の名声と武勇に恐れを なしていて、オーストリアのノイシュタインの町への彼らの攻撃は 五十人の騎士と二十丁の石弓兵で勇敢に防衛され、彼らはドイツの 一部隊の来援で包囲を解いた。 (「ローマ帝国衰亡史」巻10) このようにギボンは蒙古人がドイツ人(フランク族)の勇猛さに 恐れをなしていたと記している。 たった五十人の騎士で一城が守れるとは信じがたいがノイシュタット の防衛はドーソンも、 ノイシュタットには僅かに五十人の守備兵と 二十人の石弓兵とを備える のみなりしが、蒙古兵はオーストリア公、 ボヘミア王、カリンチア公、 バーデン侯Agrar管長の連合軍近けるを 以て退却したり。(「蒙古史」) 今村明著 『封建制の文明史観』P60-P61
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586 :人間七七四年[]:2011/04/06(水) 18:55:46.69 ID:9+ht0Uj8 - 明軍5〜6万の来襲にあって、半年ほどで朝鮮半島南部日本海側まで
撤退させられた日本軍(文禄の役1593年) スレイマン大帝率いる12万の大軍相手にその気になれば5万人以上 の兵力を余裕で動員できたのに、2万ほどで迎え撃ち、見事に撃退した ハプスブルク軍(第1次ウィーン包囲1529年) 多少時代は違うけどハプスブルク軍と日本軍てだいぶちがうね!
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