- 【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
163 :人間七七四年[sage]:2011/03/26(土) 00:49:18.24 ID:QGQHEGxH - 質問です。
戦国時代にはキリスト教が広がっていく中で国内に教会が存在したと聞くのですが、 それがどのようなデザインの建築だったのかわかる絵などは残っていないでしょうか? 西洋そのままのデザインだったのか日本風になっていたのか気になるのですが。
|
- 戦国ちょっといい話25
534 :人間七七四年[sage]:2011/03/26(土) 07:52:15.63 ID:QGQHEGxH - 地元に伝わる伝承を一つ。
豊臣秀吉の臣に河内国出身の市角頼母(いちかくたのも)という武将がいたそうだ。 若い市角は関ヶ原の戦いでは西軍、大坂冬の陣と夏の陣では豊臣側で出陣したはいいが、 結果は知っての通りであり、彼は命からがら下総国の大久保という地まで逃げ延びた。 全てを失った市角だったが、当時は何もなかった大久保では上方の文化や知識を知ることから歓迎され、 多くの新田や寺社を作るなど開拓に協力し、最終的には大久保の豪農として名主にまでなった。 そんな人々から尊敬される市角であったが、それを妬む者は彼のその生い立ちから、 「一度も戦に勝ったことのない勝ち知らず」などと馬鹿にしたそうだが市角は決まって、 「私は風の噂ではあるが、乱世では武功に優れ天下に名を轟かせていたというのに、 治世となってからは役目を終えたかのように消えて行った家をよく聞く。 彼らは乱世で活躍したために治世ではその力が恐れられ身を滅ぼしたのだ。 だが、私は若い時に負け続けたことで自分の身の程と処世術を知り、余生を楽しんでいる。 戦の勝ち負けよりもそれによって何を得て何を失ったのかを見なければ人生はわからんよ。」 とそうした者たちを戒めたという。 伝承では市角は九十歳ちょっとまで生き天寿を全うしたとされている。 余談だが市角が河内国から勧請した誉田八幡宮は、 明治時代になると周辺に習志野騎兵旅団の演習場や司令部がおかれたため、 騎兵第一旅団は戦地に赴く前にそこで勝利を八幡神に祈願していった。 生まれて一度も勝利を経験したことがない男によって開拓された土地が、 後に軍都となったというどこか皮肉でちょっといい話。
|
- 【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
166 :人間七七四年[sage]:2011/03/26(土) 10:16:23.72 ID:QGQHEGxH - >>164
>>165 ありがとうございます。 では教会と言ってもせいぜい十字架がついてる程度の寺ってイメージでいいんですね。
|