- 【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
164 :人間七七四年[sage]:2011/03/26(土) 01:05:58.52 ID:L9tlkcyw - >>163
仏教の寺と同じ。なのでヨーロッパから来た宣教師の一部から現地化し過ぎだと 文句が出ておる。
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- * 織田信忠 その2 *
389 :人間七七四年[sage]:2011/03/26(土) 01:16:45.40 ID:L9tlkcyw - 甲州攻めは信長の言うことを聞かずガンガン攻め上がる信忠に、
信忠の言う事を聞かずさらに暴走して攻め上がる森や河尻という 軍隊の統帥的には最悪な展開だった。
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- 【疑問】スレ立てるまでもない質問 7【戦国時代】
169 :人間七七四年[sage]:2011/03/26(土) 12:14:07.53 ID:L9tlkcyw - >>167
家康側の理由としては、本能寺後の天正壬午の乱での甲信への介入も「織田政権」『公儀』の 意思として行っており、事実家康の軍事行動は「織田政権」、信雄、信孝、秀吉、柴田勝家、 丹羽長秀などの全面的な支持と援助のもと行われている。 家康の甲信進駐の名分がそうであった以上、その安定も「織田政権」の支持を必要とする。 特に真田、木曽、小笠原といった大名クラスの勢力が多い信州ではそうだった。 そしてこれは案外知られていないが、賤ヶ岳の過程で秀吉、丹羽長秀、池田恒興は 清洲体制の崩壊と共に三法師の擁立を断念。天正11年10月28日、新たに 織田信雄を織田家家督に据えた。 この事は秀吉から家康にもその同意を求める書状が送られている。 賤ヶ岳の結果信孝も滅亡し、公的にも事実上も織田家を代表するのは信雄となった。 つまりかつての織田徳川同盟の流れから言っても、また新領地の支配安定のためにも 家康に取っても、信雄との同盟は現実的に必要だった。 その証拠に小牧長久手の後秀吉と信雄との間に単独講和がなると、信州の小笠原、木曽、真田は 秀吉の側からの工作もあってすぐに家康から離反している。徳川の支配のための名分と バックアップが崩れたためだ。 それでも秀吉への臣従まで甲信を保持し得たのは家康の器量だが、とにかく家康にとっても、 信雄を助けるのはその生存に関わる重要性を持っていた事は理解されていい。
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- 戦国ちょっといい話25
539 :人間七七四年[sage]:2011/03/26(土) 12:52:44.71 ID:L9tlkcyw - 八幡太郎義家などを代表とする、武士の祖と言うべき河内源氏は、
北斗の拳のヒャッハーどもも泣いて逃げ出すリアル残虐非道戦闘マシーン。
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- 戦国ちょっといい話25
547 :人間七七四年[sage]:2011/03/26(土) 21:35:25.29 ID:L9tlkcyw - 古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、
信長、秀吉、恐れながら神君御参会の時、卯月(4月)のころ、いまだ郭公(ホトトギス)を聞かずと 物語いでけるに、信長、 鳴かずんば 殺してしまえ時鳥 とありしに秀吉、 なかずとも なかせて聞こう時鳥 とありしに、 なかぬなら なく時聞こう時鳥 とあそばれしは神君の由。自然とその御徳化の温順なる、又残忍、広量なる所、その自然をあらわしたるが、 紹巴(里村紹巴)もその席にありて なかぬなら 鳴かぬのもよし郭公 と吟じけるとや。 『耳袋』巻ノ八より
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- 戦国時代のトリビア
445 :人間七七四年[]:2011/03/26(土) 22:40:23.27 ID:L9tlkcyw - 羽柴秀吉は清洲会議で信長の子、信孝信雄ではなく、織田信忠の子、三法師を擁立したが…
実は秀吉よりも先に、徳川家康が伊賀越の後の西上の途中、三法師を立てての 弔い合戦を主張している。
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