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人間七七四年
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【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ15【東軍】
戦国ちょっといい話25
【猫口将軍】山県昌景と愉快な仲間たち 軍勝5分

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【西軍】関ヶ原の戦い総合スレ15【東軍】
745 :人間七七四年[sage]:2011/03/17(木) 11:12:26.40 ID:ssXHTjZy
ぶっちゃけた話すると小早川の裏切り前に西軍はすでに敗勢にあった
戦国ちょっといい話25
378 :1/2[sage]:2011/03/17(木) 16:18:54.01 ID:ssXHTjZy
この話は後年、伊達政宗の叔父である留守政景が、親しい者に語ったことだという。

文禄4年(1595)7月、世に言う秀次処分が起こった。この時『伊達政宗も秀次の与党である』との
風聞が流れ、国元にいた政宗は大いに驚き急いで大阪に向かい、まず政宗の秀吉への申次たる医師、施薬院全宗の
屋敷に入り、そこから秀吉に対し自分の無罪を訴えた。

施薬院の屋敷には秀吉からの糾問の使いが2度まで送られ、その後政宗に命じられたのは

『わが子秀頼が誕生したとき、汝の息子兵五郎(後の伊達秀宗)を参らせた。これは秀頼の被官となった者の
初めである!されば、かの兵五郎を以て伊達の家を継がせよ。そして汝は伊予に国替えさせる!
伊達家の主な家臣たちも皆上洛させ、政宗自身は京のおのが屋敷で謹慎しておれ!』

つまり政宗は強制的に隠居させられ、伊予への国替えを申し付ける、と言うのだ。
政宗はこれに驚愕した。そしてどうにか秀吉からの赦免を得るべく、留守政景ともう一人側近をつけ
徳川家康のもとに派遣した。この時家康は、伏見にいた。

京から夜を徹して駆け早朝、徳川家の伏見屋敷についた二人に、家康はすぐに対面した。
その朝はやや寒く、家康は火鉢に寄って体を温めていた。

二人が申す旨を聞くと、家康は表情を和らげ「こんな朝早くに来たのだ、朝食も未だであろう?
丁度朝食が出来たところだ、お前たちもこれを食すが良い」と言うと、そこに食事が運ばれてきた。
二人は遠慮をし、その場を下がろうとすると家康、「よいよい、お前たちもこの場で食せよ。」と留めた。

ところで家康はご飯を黄銅の鉢に入れ、それを火鉢の上に置いて、なんと保温していたらしい。
そして給仕のものに「あの二人の飯はもう冷えているだろうから、これをあたえよ」と、保温されたご飯を
分け与えた。

さて食事が済みお茶が出され、一息ついたところで二人は再び家康に訴えた。
「政宗はどうすればよろしいのでしょうか!?ご返事受け賜わるべし!」

すると家康、上座から降りてきて突然、大音を響かせた!

「やあ!おのれらの主人は、さしも日頃は世の人をば這う虫程度にも思わず、無遠慮な言葉を吐き散らかし、
馬鹿げた振る舞いばかりしているが、このような窮地に至るとそれまでの威勢が夢ばかりもないではないか!
そう言う人間を、臆病者というのだ!

お前たちは伊予に渡って、魚の餌になろうと思うか!?それとも都のうちで犬の餌になろうと思うか!?
この二つのうちどちらかに思い極め、その上で愁訴せよ!

わしからの返事がある。…お前たち、近くに来いッ!」

「は、ははっ」

二人、恐る恐る家康の側に行くと、なにやら耳打ちされた。
戦国ちょっといい話25
379 :2/2[sage]:2011/03/17(木) 16:21:16.42 ID:ssXHTjZy
さて次の日、京の伊達屋敷の者たち、「我々は討ち手と戦って死ぬ!」と大騒ぎを始めた。これには京の市民も
驚き怯え、大阪にも聞こえたため秀吉は「すぐに様子を見てこい!そして政宗の家臣たちの上洛を急がせよ!」
と命ずる。秀吉の使者が伊達屋敷の門前に至ると、屋敷の者達、侍だけでなく雑人に到るまで弓矢を背負い鉄砲に
火縄を挟み、槍や長剣で杖ついて大庭に満ち満ちているのが見えた。そこに御使到着と聞いた政宗が、
頭は髻を切った大童、刀も差さぬ姿で兵たちを押し分け現れ、門を開かせ内に招き入れた。そして御使の
仰せを聞いてから

「この政宗が、先の隠居、国替えという仰せを承ると、家の子郎党たちが集まって私に対し建議しました。
その内容は

『どうして先祖累代の地を離れて知らぬ国にさまよい、天下に恥をさらすことが出来ましょうか!?
政宗様は尋常にお腹を切りなされ!我々は討ち手を待って斬り死にいたします!』

私はこれを制し、そんな事をしてはならぬ、考え直せと説得しました。ところがこれに家臣たちは
『こんな大臆病の主人だとは知らなかった!』と反発し、もはや私の下知は受け入れません。
今まで私の下知を、一体どんなことであっても必ず背くことのなかった彼らが!

いま政宗が太閤殿下のお咎めを受けたため、家臣たちは己の主人が有るとも考えもせず、このような
酷い振る舞いに至りました。この事、きっと殿下のお耳にも達するでしょうが、これは全く政宗の所存では
ありません。もしお尋ねがあったら、どうかその事をくれぐれもお伝え下さい!

また在国の家臣たちですが、上洛するように何度催促しても、一通の返事すらよこしません。
彼らもまた何か、良からぬことを企てているのではないかと大変心配しております。」

と伝えて、御使を返した。

さて、この事で大阪城も騒ぐ中、伏見の家康が「洛中の騒動を聞いた」と登城し秀吉に対面した。

そして秀吉に言うには
「殿下、都において政宗の家人たちを打ち滅ぼすこと、これは何程の事もない。ごく簡単に済ませられるでしょう。」

「むう。京は問題ない。だが…」

「はい、在国の者達が累代の主人が失われたと聞けば、彼らは理非をわきまえぬ荒えびす共ですから、
殿下からどんな仰せがあっても、その御下知に従わず反乱を起こすでしょう。

現在、朝鮮のこと未だ決着が見えておりません。外征のさなか、国内で兵乱を起こすべきではありません。

卑しきものの言葉ですが、大事の前の小事、と言います。また、罪が疑わしければこれを軽んずる、という
言葉もあります。そして何よりも、あの伊達の所領を奪ったところで、遠く離れた所領でありその管理に
大変な労力が必要となります。

以上の理由により、先ずこの度は寛宥の御沙汰があって然るべき…、かと存じます。」

そんな家康の言葉もあり、また、何故かこのころ、京伏見にいかにもわざとらしい
『伊達政宗が太閤殿下を討ち給わらん謀り事の様』なる立て札が現れ。これを見た秀吉は
「どうも政宗を憎み陥れたい人間が
、このような噂を流しているようだ」と判断、

結局、政宗の処分は撤回されたという。

以上、伊達政宗が秀次処分での危機を逃れた顛末である。
【猫口将軍】山県昌景と愉快な仲間たち 軍勝5分
424 :人間七七四年[sage]:2011/03/17(木) 23:48:19.85 ID:ssXHTjZy
とりあえず


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