- 家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
53 :人間七七四年[sage]:2011/02/04(金) 13:41:13 ID:Aikw/WtZ - >>49
元就スレに下記のことが書かれているから元就はかなり有利でしょ。 毛利は反上位権力国人一揆のリーダーとしてその婚姻関係をフルに使っている為に 保護者である大内も尼子も一目を置かざるおえない強固な立場で両天秤にかけてちょくちょく加増してもらう楽な立場。 そもそも毛利は総領光房以外に4人が連署に加わったほどの発言力で安芸一揆の盟主の地位が毛利家。 毛利光房・平賀妙章の一揆中心人物が義満の一揆討伐軍派遣を逃れる為に降伏交渉しており 山名氏を通して降伏し七通の赦免の御教書を出してもらう予定だったが時期に恵まれず 特に毛利光房がたびたび懇願していたのにも関わらず義満が死去で沙汰止み。 1517年の毛利所領は40余りの荘を保有し判明している7荘だけで5700貫に上る巨大勢力である。 毛利家文書151・252号によればすでに1475年備後国伊多岐・重永・山中など 世羅台地にも毛利は3000貫を獲得し備後国にも発言力を持っている。 幸松丸が鏡山城先陣を勤めたのは毛利家文書239でわかるが鏡山城攻防に信頼できる史料は無く 平賀氏は鏡山城落城の現形の功で東西条616貫を経久から与えられてる(平賀家文書61号) ただ義興による加増の由来が毛利家文書251号に書かれておりそこで元就が言い訳しながら過去を振り返って書いている。 (20年に渡り安芸の大半が尼子になびいたが毛利だけが大内に忠勤したとか 兄弟も親戚もいない天涯孤独な元就などとデタラメが書いてある) ここに尼子がやってきた時に幸松丸が死んで元就が継いだと書いており、なぜ死んだのかまったく触れてない実に不審である。 しかも1513年3/19付で志道広良が元就は今後は広良の援助を得て毛利のために奉公する誓約書を書かされていたりと 元就の謀反をすでに警戒している姿が現れていて、その3年後に興元が唐突に急死・・・実に怪しい。 毛利家文書239号に元就が跡を継ぐのは尼子の承認ありの動かぬ証拠があり・・・ 尼子の安芸進出に伴い鏡山城における幸松丸暗殺と毛利の尼子への寝返りが完全にリンクする。
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- 家督相続時に状況が悪かった大名ベスト5
54 :人間七七四年[sage]:2011/02/04(金) 13:52:29 ID:Aikw/WtZ - >>52
信長はかなりめぐまれてるんじゃね。 各国最盛期を演出した大名と跡を継いだ不肖の息子達 駿河英主 今川氏親(北条早雲の姉の子で死没1526年)分国法『今川仮名目録』を制定したが早世した。 遠江で検地をした兄氏輝の早世(〜1536年)後の家督争いに勝った 義元は補佐役の太原雪斎(〜1555年)が死んだ後は迷走して 歴史上でもレアなもっとも恥ずかしい大名の野戦での敗死。 越前英主 朝倉孝景(〜1548年)加賀一向一揆との和睦を成して一乗谷の文化的繁栄をもたらす。 息子義景は補佐役朝倉宗滴(〜1555年)が死んだ後は迷走して最後は従兄弟の謀反で死ぬ。 南近江英主 六角定頼(〜1552年) 浅井久政を従属下に置き、家臣団を本拠である観音寺城に集住させる。 経済発展のために楽市令を出して城下は空前の繁栄を迎えていた。 息子義賢は最有力重臣で人望もあった後藤賢豊を惨殺し家臣から見放され浅井への内通を許し 六角氏当主権限を縮小する六角氏式目に署名させられた(観音寺騒動1563年) 美濃英主 斎藤義龍(〜1561年) 旧土岐家臣2万を自らの旗本に結集させ信長を死ぬまで撃退し続ける。 13歳で家督を継いだ息子龍興は稲葉山城を家臣に乗っ取られたアホで家督継承しわずか6年で亡国。 跡を継いだ息子はみんな暗君だったと言える。 結果 主家の尾張守護代清洲織田家が衰退期に入り 清洲三奉行・織田弾正忠家が高収入源の商業都市津島や熱田を支配しまさに隆盛拡大発展期に入り、 織田弾正忠家の力のみで周辺諸国の国持ち大名とガチで戦闘が行えるまでに成長する。 さらに円滑に家督を継いでいた信長は実に運がいい男と言える。 しかも信長が1556年の斉藤道三の死から1567年に美濃掌握し11年で 尾張57万石+美濃54万石=111万石になり上がり、 この濃尾平野に覇権を確立した時点で周囲を圧倒した勢力になっていた。 また三好長慶が死去し分裂紛争中の三好三人衆や松永久秀らの暴虐ですでに三好政権は瓦解中。 三好配下内で闘争していた池田勝正などもあっけなく信長に降伏し労せずして摂津支配も確定させ 将軍権威を背景に若狭武田なども帰属させ大商業都市の堺・大津・草津をも支配下に組み込む。 一方、北条氏康・上杉謙信ら隆盛期を迎えた各家に囲まれた信玄は家督継承し1542年に信濃侵攻を開始し 1553年に村上義清が謙信の元へ敗走し信濃を11年で掌握し(しかも村上家も領土が膨張しており勃興期を迎えていた) 天候不順と河川氾濫ばかりの甲斐22万石+信濃40万石=62万石と信玄は自分の領地の2倍の石高の地を併呑する奇跡を成し遂げている。 キツイ城ランキングを見ると信濃の山城ばかり目立つ。武田軍の精強さと攻城の苦労がわかる。 ttp://utsu02.fc2web.com/tozanranking1.html
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- 織田信長は日本最高の過大評価6
324 :人間七七四年[sage]:2011/02/04(金) 16:01:34 ID:Aikw/WtZ - >>315
天文15年4月20日に起きた河越夜戦は存在しない。 氏康→簗田政信書状 天文12年4月 憲政らが河越城を取り囲んだこと、氏康が河越近辺に布陣したこと、 憲政の馬廻り等を討ち取ったことなど含め、諸々書いてる 資武→資宗書状11月13日 上記の内容や幻庵と綱成籠城時に扇谷共輩の軍が押し寄せ云々などを 太田資正から資武へ語られた内容を資武から資宗への書状で書いている。 綱成が川越城主と決まったのは天文15年4月の川越夜戦の勝利からだが 攻城自体は天文14年9月だと言うから綱成がその時に川越城を守っているのはまぁ良い。 だが天文12年4月に綱成がすでに川越城にいて川越野戦があったと言うのは明らかにおかしい。 人物配置に矛盾があり、年がまったく合ってないが月だけは合わせている偽文書っぽさが実に香ばしい。 当事者が書いたなら年を間違わない。 しかも相手に読ませるものを間違えるなどみっともないを越えていて 後世に別人が書いたから事実誤認して年を間違えてる。別人も当時揃えた史料内でリアリティを追求したつもり。 現代はいろいろな史料を突き合わせてチェックできるからミスがチェックできるだけの話。 そもそも日付自体もデタラメな可能性もある。 黒田基樹も江戸時代成立の軍記物により「河越夜戦」として喧伝されている戦いについては 同合戦そのものに関する良質な史料は極めて少ないと語っているし 当時の川越城は玉縄城主北条綱成ではなく宿老大道寺盛昌が城代をしていたとしてるから 天文12年にすでに綱成が河越城にいたとするのは明らかに事実誤認して偽文書を作成してしまったと断言できる。 北条厨は武田文書は偽文書ばかりと喚くくせに北条の文書は偽文書がないとか主張する気か?
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325 :人間七七四年[sage]:2011/02/04(金) 16:10:26 ID:Aikw/WtZ - >>315
厳島の戦いは村上氏を主力とした1万5000と運気や占いかぶれ陶5000程度の戦い。 周防17万石VS安芸20万石の戦いだよ。陶は大内義長を自分の手のうちに収めるために手勢を置くだろうし 毛利と通謀してる宗麟相手に北九州でも備えが必要だし、 山口では内藤氏が内紛中なので援軍を送らないとだし石見にも和睦したとは言え 多少の駐留軍が必要だが毛利は全軍を投入できる。よって陶軍が寡兵で毛利軍の方が多かった。 現実に厳島合戦で毛利が勝てたのは 能島村上水軍が陶 因島村上水軍が毛利 そして来島村上水軍がどっちに付くかで元就は来島水軍が味方についてくれなきゃ終わりだと言ってた。 瀬戸内海の水運権益を手放して大幅譲歩した結果、来島水軍が味方になり毛利が勝っただけ。 軍記講談と違い毛利は何もしてない。 何が起こるか予想のつかない現実の戦場で講談のごとく、 何から何まで計算通りにいくなんてあるわけ無いでしょ。過大評価って戦国大名にはつきものなのかとも思うね。 「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状) 厳島の戦い後、十三年経っても、あの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡 であったことを元就自身が白状している。現に合戦当時、厳島の宮の城から隆景に 「来島が来てくれなければ万事休す、何としても助力が得られるよう交渉しろ」 と絶望的で哀れなほど追い詰められた書状も出している。 陶は義隆を滅ぼし義興が許可していた上関(堺)での村上氏の特権を認めず騎下の米良船を自由に通過させ 1552年2月厳島に掟を下して港に立ち寄る諸回船から警護米を取り立てるのを禁止。 さらに4月義隆時代に能島村上武吉の叔父で後見人の村上隆重を通して村上一門に与えていた特権も否定。 厳島で京・堺商人から村上が駄別安堵料を受領することを禁止し、 京堺商人から礼銭の献上を陶氏が要求したことで関係が破綻し村上水軍全体が反抗的態度になる。 「厳島に囮として宮尾城を築城し桂元澄が陶に偽りの内通をさせて郡山城に行かせずに宮尾城に誘き出した」 これまったくの大ウソ。宮尾城は以前から厳島に存在してたし桂元澄内通の偽起請文なんて存在してないデタラメだし、 1540年に陶が郡山城を救援しに行った時も岩国から厳島に渡海してる交通路。 しかも厳島合戦に従軍した名前に内藤や杉の名前はなく戦死者の名前も陶氏の家臣や周防南部の武士ばかりで どう考えてみても周防からの動員数しかいない。 陶の主力となった元就をよく知る勇将江良房栄の殺害を弘中隆兼に 身の潔白を示すために殺せと命じ軍のさらなる不和を演出w さらに慎重論を進言し再三諫めたら弘中隆兼を臆病者呼ばわり。 渡海後に弘中隆兼が武王の故例を引用し宮尾城の準備ができてないので運気や占いを信じずに今すぐ落城させろと 陶に進言するも大凶日は休戦日は古来からの武家の習わしとして軍備を解き無駄に日数を費やすアホぶり。 厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから戦いたいけど休戦日かぁ!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ! 万代記 厳島合戦日記 1555年9月29日のところ 厳島渡海する時、前日より西風もってのほか吹き荒れ時雨あり。朝、河ノ内衆召し出し、 今日暮れに堤ノ浦へ富り手人数15000ばかり有り一時に漕ぎ渡ると申され…9月廿九日 大江元就 ※元就は4,000どころか1万5000の兵力を動員している事実。
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- 【三浦介】葦名氏総合スレ【会津守護】
619 :人間七七四年[sage]:2011/02/04(金) 19:40:55 ID:Aikw/WtZ - 洞を過大評価スンナ
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