トップページ > 戦国時代 > 2011年01月28日 > iRVaeWLn

書き込み順位&時間帯一覧

11 位/195 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数0100000000000000010100104



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
人間七七四年
戦国ちょっといい話24
【治部】石田三成総合スレ 8【佐吉】
戦国時代の動員兵力を語るスレ

書き込みレス一覧

戦国ちょっといい話24
450 :人間七七四年[sage]:2011/01/28(金) 01:10:14 ID:iRVaeWLn
だからあてつけというかしらばっくれというか、そういう事なんだよと思うよw>重宗
「あんたらもう孫がいるような歳なのに、そう言う子どもみたいな意地の張りあいしてて
それはどうなの?」
って底意で言っているんだよ。

【治部】石田三成総合スレ 8【佐吉】
113 :人間七七四年[sage]:2011/01/28(金) 17:51:59 ID:iRVaeWLn
>>111
> そういう史実はなかったというのが定説
だからお前のいう定説はどこで言われている定説かハッキリしろ。
実際に三成による家康暗殺の噂が流れたのは確かだし、そう言う動きがあってもまるでおかしくはない。

三成の暗殺計画というのを完全に否定している研究者も居るには居るが、それが
定説になったなんて話は

聞いたことがない。
戦国時代の動員兵力を語るスレ
523 :人間七七四年[sage]:2011/01/28(金) 19:52:09 ID:iRVaeWLn
>>522
1:謙信自身が率いる軍自体は必ずしも大軍ではないこと
2:上杉が遠征をするときは必ず現地の有力大名・国人を味方に付け、それらに
  兵糧を提供させたこと。

これが上杉軍が広い範囲を行動できた理由。身軽だがその分現地の政治状況に
左右されやすく、最終的に支配を確立できなかったのもここに理由がある。

ちなみに上杉軍自体の輜重はお世辞にも褒められたものではない。
戦国ちょっといい話24
455 :人間七七四年[sage]:2011/01/28(金) 22:05:14 ID:iRVaeWLn
佐川田昌俊という人は下野に生まれ、上杉景勝に仕え、やがて関ヶ原の後永井直勝に仕えた
武勇優れた武士であったが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-515.html
ここに書かれているよう、武士としても勿論、歌人としても名が高く、当時を代表する文化人としても知られていた。

さて、彼の主君永井尚政が山城国淀城主となった頃のこと、永井家よりの禁裏への使者として、昌俊が
遣わされた。
この時朝廷の公卿たち、昌俊が和歌の達人であるとの評判を聞いていたため

「喜六(昌俊)よ、一つ歌を詠んでくれないか?」

とせがんだ。これに昌俊

『吉野山 花待つ頃の朝な朝な 心にかかる峰の白雲』

この歌に公卿たちは感嘆し、当時の京で大変な評判となったそうだ。


さて、それから数年の後のことである


ある公卿が嵐山に遊んだ時、その山奥に小さな庵を見つけた。
このような山奥にと、公卿は珍しく思いその庵を訪ねると、庵主である僧に招き入れられた。
そこで公卿と僧は宮中の式礼について、和歌についての興味深い話など色々と面白く語り合った。

この僧が非常に学識深く風雅の道にも造詣が深い事かったため話は興に乗り、春のことであったため、
ふとこの公卿、かつて佐川田昌俊が詠んだあの、吉野山の歌を吟じた。

「さてさて面白い歌であろう?堂上にてもこれほどの歌を讀めるものはおらんよ。」

そういう公卿にこの僧

「それほど褒めるような歌ではありませんよ。この歌は昔、東下総守(東常縁)が詠んだ

『朝な朝な 雲たち添うる小倉山 峰吹く風は花の香ぞする』

という古歌によって詠んだものでしょう」

と言った。


さて、この公卿が帰ってきて親友にこの事を話すと、この友驚き
「それは他の者ではない!佐川田昌俊が隠遁して世をのがれ、そこに住んでいるのだろう!」

翌日公卿とその友はうち連れて再び嵐山に分け入り、かの庵室を訪ねたが、その庵は既に崩し捨てられ、
庵主はどこかへ行き去った跡だったという。

佐川田昌俊の有名な歌と、それにまつわる不思議なお話。


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。