- 毛利衰退の原因は、元就が作っている件
385 :人間七七四年[sage]:2011/01/28(金) 02:57:51 ID:Asy/QulM - 穂井田元清は身分に劣等感を感じてたよね。
だから息子の宮松丸には豊臣秀長の娘をもらい 秀吉から「秀」の字を貰い秀元と称させて 輝元の養子にさせざるおえなくして、 やっと隆景と対等に話ができるようになり、 対抗した隆景が必死に秀秋を養子に貰い受け 立場の逆転阻止を図ったと言える。 その劣等血統の呪いとやらか関ヶ原後に次第に 大坂と家康の地位が逆転し険悪化が始まるや 秀元は家康養女を正妻に迎えて権力保持するなど 立場や地位を守る手段は選んでない。 そして徳川家光の御伽衆になり輝元が死去するや 公然と毛利宗家を軽んじ反抗し始めたし。 秀元もやはり隆元や元春や隆景ら三兄弟の吉川母の血統を 恨み続けた元清の悔しさを晴らし祖父に復讐したかったんだろうね。 家康への内通の吉川広家書状に宍戸元続や熊谷元直と共に連署した 益田元祥も正妻が広家の姉妹なのに、宍戸元続同様に さっさと広家を見限り秀元についてるしね。 秀元は長府藩を守り、さらに清末藩も生まれ子孫繁栄する一方で、 吉川の自立を完全に押さえつけ、小早川も改易し 毛利本家も5代目は虫けら秀元の長府藩からの養子だし元就への復讐は成就したよね。
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- 長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】
580 :人間七七四年[sage]:2011/01/28(金) 04:16:09 ID:Asy/QulM - >>578
一上様・中納言様御事、粗略存ましき事 一上杉中納言様御事、粗略存ましき事 この2つの書状が存在していて最上による改変が 成されていると言う話でやはり高橋先生だな。 >>579 お前は自分で書いた「「上様」はおそらく天皇や将軍くらいのレベルにしか使えないはず」って言葉も忘れたのかw 後から言い訳みたいに条件を追加して屁理屈を繰り返すなよwww そもそも上様・中納言様を秀頼とすると中納言の該当者が備前中納言とか安芸中納言とか いろいろ出てきて中納言が誰だか予想がまったくつかない文章になる。 会津征伐の下知を受ける相手は家康であり、そうであれば中納言は自動的に秀忠である。 元文が上杉中納言様御事、粗略存ましき事であるなら、 それなら何で最上は上杉に攻められるハメになるんだ?との質問に お前は>>539で>>南部だけが上杉に付くという話ではなく、最上にも強要している文章と回答してきた。 それならこの書状を家康に提出したら南部は即改易になるはずだろ?だけど改易されてないのは矛盾してないか? では二つある書状のことを考えて最上による改変の場合を考えてみよう。 君の主張する上様(秀頼)・中納言様(上杉)にすると、これでは家康に出せる書状じゃなく改変する意味が不明。 俺の主張する上様(家康)・中納言(秀忠)に書き換えて最上の忠誠心をアピールしたかったのか? 直江と戦ってきた以上は改変の必要性があまり感じられない。 上杉中納言様→上様・中納言に改変について非常に疑問だ。 では元文が上様・中納言様、粗略存ましき事であるなら、 君の主張する上様(秀頼)・中納言様(上杉)にすると、やはりなんで上杉に最上が攻められるんだよ?になる。 では二つある書状のことを考えて最上による改変の場合を考えてみよう。 これが俺がずっと主張してる話だな。 上様(家康)・中納言様(秀忠)→上杉中納言様御事に変更すると 南部だけが上杉に付くという話ではなく、最上にも強要している文章になり、 南部が最上に上杉に付くように強要してる文章になり、最上が南部を改易しようと陥れる文章が成立する。 しかし家康は西軍伊達を撃退した東軍南部を改易しなかったわけだ。 それはこの文章の写しを南部が持っていたためだろう。だから2つの書状が存在していると思われる。 まぁ上杉中納言〜が論破されると次は上様(秀頼)・中納言(上杉)〜なんて解釈を持ち出してくるのが笑えるんだが。
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- 長谷堂城の戦い 2 【直江兼続VS最上義光】
581 :人間七七四年[sage]:2011/01/28(金) 04:26:00 ID:Asy/QulM - >>南部家文書の8/13付の政宗書状は現在の俺の手持ち史料に
ないから転記できないがしかし金子先生の書物を当たればすぐ見つかると思う。 >>8日に秋田は榊原に対して帰国すると伝えているし。 これはウソだろう?秋田実季が片桐且元へ提出した出陣算用状によると 山形へ7/28〜8/28まで1500の兵を出し、別に7/30〜8/15に院内まで2000を派遣している。 「対決之次第」によると実季が院内まで出陣。山形へは館岡・湊らが兵を率いたとしている。 「最上家伝覚書」に8/13南部・8/18戸沢・8/19本堂が義光に宛てて同内容の血判起請文を出しており、 義光からの返書の血判起請文が8/20戸沢宛が残っている。 安東らのもあったはずだが「最上家伝覚書」の編纂した当時は焼失して無くなっていたとされる。 つまり安東は8/21付家康を受け取ってから最上領撤退を始めて8月いっぱいかかったことになる。 実季は家康に状況の報告を8/8に送ったとされる。なぜ「される」のかと言えば、 家康の8/21付け帰陣命令が届いた際にその副状として 8/22付け榊原・有馬・佐々木の実季宛て8/8書状への返書が届けられているからだ。 だから「>>8日に秋田は榊原に対して帰国すると伝えている」わけがない。 >>サブの説によると、起請文は真偽不明なのでは。まぁそれはいいや。 さてこの血判起請文は8/13付けで、上様(家康)・中納言様(秀忠)であり、 和賀の件で早々と撤退するんだけど南部は一応、他の大名らに先駆けて 家康らを粗略に扱うわけじゃないと血判起請文だけはきっちり書いてから撤退しているわけだ。 でも君の言う上杉中納言を粗略に扱わないとする文章なら、 以後の大名はみんな同じ文章内容の雛形で日付だけ違う血判起請文を書いているわけだ。 こんなもん書いてたら南部どころか本堂や戸沢なんて瞬間的に改易されて消え去るだろ? しかも義光からの返書の血判起請文にも上杉中納言と書かれていたら最上も危機的な状態だw 最上はまったくの潔白で証拠がない南部を何とか陥れようと考えて 他の大名より早く帰ったことをいいことに他の大名の文章と違い、 南部の場合だけ上杉に内通するので帰るわ!って内容に改竄したんだよ。
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