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人間七七四年
城址巡りの旅 其の九
戦国時代のキリスト教について語る
毛利衰退の原因は、元就が作っている件

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城址巡りの旅 其の九
844 :人間七七四年[]:2011/01/03(月) 03:17:25 ID:Dl/6X40q
有岡城→篠山城
中津城内での御殿→篠山城の御殿
中津城→高島城?丸岡城?
備中松山城内での御殿→篠山城の御殿?

備中松山城→九州の城?園部城?龍野城?


戦国時代のキリスト教について語る
140 :人間七七四年[sage]:2011/01/03(月) 03:25:04 ID:Dl/6X40q
美作三浦氏は大友宗麟から鹿介経由で塩硝を援助してもらい(1569年?11月19日の書状)

毛利衰退の原因は、元就が作っている件
246 :人間七七四年[sage]:2011/01/03(月) 06:20:42 ID:Dl/6X40q
1566年7月には毛利が後援していた三村元親を浦上配下の宇喜多が明善寺合戦で破り
備前西部・美作から三村氏を追い払い備中深くまで侵入し
1568年には撫川城(備中南東)・猿掛城(備中南西)・斎田城(美作・備後国境沿い)と宇喜多の前に次々落城し、
最後の仕上げとして直家の調略で備中の名族庄氏が裏切り備中中枢の松山城の居城を奪われ三村氏は崩壊。
大友は毛利が清水を派兵して支援している北九州の国人を叩き潰すために元就の目を逸らす目的で四国の一条氏に支援を送る。
これに引っかかり3月に元就曰く「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」厳島の恩返しのスローガンで隆景が河野支援で四国へ。
7月4日、道雪の調略で立花城落城。立花鑑載討ち死に。高橋城からからくも脱出した原田、衛藤らは清水とともに中国へ大敗走。
8月、原田、衛藤が立花城奪還を図り、再度、やってきた毛利の将たる清水と5000を集めて襲撃するも撃破される。
清水もなんとか新宮の浜から長門へ落ちた。前回の戦いのダメージから回復していない秋月は毛利の援軍敗北を知り大友に降伏。
宝満城の高橋鑑種が孤立化。 九州の戦況激変により隆景は四国での厳島の恩返しを投げ出して大友氏と戦うために九州へ。
この際、なんで小早川の私欲のために俺らが狩り出されなきゃならんわけ?と思っていた
毛利兵が四国から九州へ向かう船上で対岸の故郷を見て士気が下がらないように船を布で覆ったという。
毛利が大友戦で四国の余裕が無くなり大友の後援を受けている一条氏が西園寺をも降し
小早川隷属下だった伊予での主導権を握り11月には東表の合戦に一条氏が大勝利し
甲之森城主の長山伯耆に切敷のうち六町を与えて毛利の後援を受けている河野との形勢逆転に成功。今後は大友支援の一条VS長宗我部になっていく。
1569年2月大友全軍をあげて毛利支援の龍造寺討伐を開始し隆信を佐賀城へ押し込む。
これにより毛利支援の神代、馬場、八戸、横岳、犬塚、小田、姉川、高木が大友に降伏。
3月毛利4万で門司城奇襲し小倉城に着陣し元就も対大友戦で長府へ(翌年正月に輝元をおいて元就は吉田へ帰る)
5月より大友との多々良浜の戦いが開始され吉岡宗歓の秘策を宗麟が実行し村上武吉が見て見ぬフリをしたために大成功し大内軍が後方の周防国へ上陸し
合戦でも5月18日毛利4万と大友3万5000が立花を巡って決戦をし、道雪が小早川隆景隊左翼に突撃をかけて敗走させたために毛利全軍も敗走していた。
11月15日雨天にみぞれが混じり降る寒風の夜に吉川元春を殿に撤退開始。
「士卒大いに凍え疲れ、親を捨て主を跡に置きて、我一にと逃げ行くを小倉の津まで追討。
行程十余里が間、死人算を乱せるが如し、今日大友方へ討取る首数3491級」 そして置き去りにされた立花城の毛利軍も降伏。
毛利衰退の原因は、元就が作っている件
247 :人間七七四年[sage]:2011/01/03(月) 06:22:31 ID:Dl/6X40q

さらに尼子残党が隠岐より上陸し出雲一国をほぼ制圧してしまう。
三浦氏(美作西部の有力者)も三村氏より美作西部の要衝高田城を奪還。
(美作三浦氏は大友宗麟から山中鹿介経由で塩硝を援助してもらい攻勢)
毛利軍が備中猿掛城を落城させるも備中斎田城で宇喜多勢に大敗。毛利方香川春継が尼子・三浦氏より高田城奪取。
山中幸盛らの尼子残党に西伯耆の軍事上の中心地の尾高城を奪われる
上洛を果たした将軍足利義昭・織田信長に赤松政秀や宇喜多直家が一時的に降るも
織田の派遣した池田勝正、別所安治が越前に行くことになり
すぐ帰ってしまい見捨てられた4ヶ月ほどで直家は浦上宗景の配下に戻る。
毛利を待ち続けた高橋鑑種が11月下旬に、ついに大友に降伏し肥前、筑前、豊前の再制圧が完了し立花城には道雪が配置された。
大友は最盛期を迎える一方で毛利財政はすでに破綻しており荒廃し再興に失敗した山口の都に代わる商都博多奪取も諦める。
1570年2月尼子残党の月山富田城攻略失敗。そこで尼子と宇喜多はさらに結びつきを強め、
尼子勝久・山中幸盛らは備中より美作へ1000の援軍を派遣し三浦氏を支援し10月には毛利軍を破り高田城は落城。
尼子勢は備中を次々に降し幸山城(倉敷北方)・松山城などの諸氏は尼子に降り毛利方の城攻めを開始しほぼ毛利は備中失陥。
宇喜多配下の花房職秀は荒神山城を築城し美作支配の拠点とする(宇喜多が美作をほぼ制圧完了)
宗麟と一条氏は宇和郡へ大攻勢をかけるなど河野氏は衰退する一方。
1571年毛利と同盟して因幡を乗っ取った武田高信が但馬侵入するも山名氏の塩冶高清(尼子党と織田氏の前に帰順していた)に大敗。
西伯耆の浄満原で毛利の杉原盛重が尼子党(信長の支援で但馬因幡の山名氏を復興させた)と戦う
美作三浦氏と備前浦上宗景と尼子勝久&三好氏の篠原長房と協力して備前児島で毛利氏に勝利。
100万石まで超激減しまさに滅亡の瀬戸際の毛利・・・
6/14大友に続き織田とも敵対し始めた元就が元春と隆景と五龍の仲がむちゃくちゃ険悪なのを案じながら死去。


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