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禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw
右翼になろうよ♪

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右翼になろうよ♪
683 :禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw []:2017/10/20(金) 14:08:28.60 ID:tRlucUj+
世間が政治へ大きな影響力をもつのはなにも最近のことではない。

>>
武士と世間 なぜ死に急ぐのか 山本博文 中公新書 ASIN:B00LMB0A5Q


「世間」が人の行動の是非を判断するものとして立ち現れてくる。元禄期には一般に成立。
藩は事件の処置について世間の評価を神経質なまでに気にしていた。
世間を騒がせたこと自体が重い罪状になりえた。
武士の名誉が世間が認めるものだった。
武士は戦闘者であり、支配者階級であったため、死を怖れない強い精神力が必要とされ、
武士にふさわしくない行動をした場合は自ら死を選ぶ倫理と能力をもつとされていた。
支配身分である武士には、その身分に伴う厳しい倫理が必要であり、威厳が保てない。
社会が安定してくると、幕府の権力者や将軍までもが、世間の評判を気にするようになる。
配慮しなければ悪い評判がたち、ひいては自らの権力や地位・立場を左右する可能性があった。
町人は「世間」に背を向けて利欲や恋愛に生きることが許されたが、武士にそういう自由はない。
「世間」の評判こそが「武士道」の規定となった。武士の「世間」は、他の階級の「世間」に比べてはるかに厳しい倫理を要請した。
自分の親や子供までが武士社会から爪弾きにされる。先祖の名字は傷つき、家は断絶することになる。
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右翼になろうよ♪
684 :禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw []:2017/10/20(金) 14:32:33.32 ID:tRlucUj+
権力史観では、
応仁の乱のあと、戦国時代の混乱に入る。
それを、信長、秀吉、家康によって、江戸時代の統一へ至る、と考えるが、

民衆史観を考えなければならない。
戦国時代、国が混乱する中で、
平安時代からの荘園制が崩れ、
イエが集まった自治惣村が成立していく。
むしろ自由に豊かになっていく。
ムラは中に武士、商人、お寺を持ち、治安、司法、経済を内包する。

秀吉が行ったのは、全国のムラムラを統治することだ。
太閤検地は管理するだけでなく、中間搾取を排除し、より直接、ムラから効率的に税をとる。
刀狩りは、ムラから暴力を一掃する。代わりに秀吉が治安を守る。
さらに家康は檀家制によって、すでにムラムラにある寺を整理して、
農民の住人台帳を作らせて、管理する。

ようするに、すでにあるムライエと対立するのではなく、それを活用し統治するよう進めた。
だからムライエのもつ自治や生産性向上は任せた。
いわば、日本の荘園制に近い体制が残り続けた西洋の農奴制とは違う。
左翼は、すぐに西洋の農奴をもとにした差別史観をそのまま、日本の農民にも展開するが、
それが大きな間違いである。

江戸時代以降も、ムライエは自立的な大きな力を持ち続けた。
その具体的な現れが一揆であるが、一揆は単なる反乱でもましてや革命ではなく、
正統な法を越えた武士層への訴える方法であった。

日本で近代革命が起こらなかったのは、ムライエは自治権をもち革命を起こす必要が無かった。
明治維新でも、戦国時代、江戸時代、明治、そして現代まで、日本の基盤としてのムライエは変わっていない。
世間はそのような基盤をもとに、江戸時代の平安と豊かさの中で生まれてきた。


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