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名無しさん@3周年
靖国の背景を考える★129

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靖国の背景を考える★129
900 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/22(木) 12:20:12.35 ID:giptvV3G

>895

松平がA級戦犯の合祀に至ったのは、設立目的に沿って考えた場合、
戦後政府による国家護持に対し、反対の考えを抱えていたことが理由。

>合祀という一括りでA級戦犯合祀も国との関連があるかのような含みを
>対外的には印象づけようとしてきた

つまり、上記の主張はデマゴーグです。

むしろ、松平にってA級政府を合祀したという意味は、戦後の政府と関係性を断ち切ったといった側面が強い。

靖国の背景を考える★129
906 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/22(木) 12:33:13.85 ID:giptvV3G

>といった個々の人霊ではなく、個から引きはがされ国家護持の神霊と一体化させられたものなんだよ

これもデマゴーグです。

英霊や神霊とは、靖国神社から見えることになった対象となる人格の一部を為すペルソナであり、
個としての人格そのものから、引き剥がすような物じゃないです。






靖国の背景を考える★129
907 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/22(木) 12:36:34.63 ID:giptvV3G

それから靖国神社は戦争を賛美する目的の為に、現在ある訳でもないし、
松平自身がそのように考えた訳でもない。
もちろん、松平は日中や日米戦争に対し理解を示していた言えるかもしれないが、
戦争が起きたことに対する理解と賛美では、まったく意味が違う。

これもデマゴーグです。

靖国の背景を考える★129
912 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/22(木) 12:44:14.32 ID:giptvV3G
>>909

>聖戦

ソースをどうぞ。

遊就館は実際に見ていますが、上記のような言葉を使って説明してる展示物を見たことがありません。
単にあなたの印象を示してるに過ぎないのでは?
靖国の背景を考える★129
915 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/22(木) 12:56:19.46 ID:giptvV3G
>>913

>「自由で平等な世界を達成するため、避けられない戦い」とかいって聖戦史観いってるじゃん。

聖戦とは宗教的に神聖だとする行為を示す言葉です。
”自由で平等な世界を達成するために”といった内容は、狭義における宗教的行為とまで、
理解されていないでしょう。

よって聖戦だと言い張るのは、単なるあなたの印象にすぎないと思います。


靖国の背景を考える★129
918 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/22(木) 12:59:57.77 ID:giptvV3G

>>914

参拝してもらいたいといという気持以上に、”参拝しろ”といった主張があったとするのは、
何を根拠にしてるのですか?




靖国の背景を考える★129
921 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/22(木) 13:09:44.48 ID:giptvV3G

認識に対する事実は別として、”自由で平等な世界を達成するために”戦争することが、
理解の範疇越えて戦争賛美だとするなら、世界史とはまさに戦争賛美の歴史であり、
相対的に批判に値するようなことでもないということだな。w

靖国の背景を考える★129
925 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/22(木) 13:20:36.59 ID:giptvV3G

戦後日本におけるマルクス主義の流行は、疎外感を抱えた人間の自由に対する渇望だった。
そうした自由な空間を作るために、それを信じる限りにおいては疑う必要がなかった、
マルクス主義の考えに方によって思想的にもバリケードを作り、
実際に共感しない他者を強制排除したのちに東大安田講堂に引き篭もりもした。

しかし、そんなことをしてみても期待していたような自由のような感覚はなかった。
なぜなら、人間としての純粋な知であると考えていたものは、所詮はマルクス主義の作りもので、
疎外感を克服しようとしたあり方自体に、囚われてる自分という物を強く意識するようにもなったからだ。

恐らく反靖国も似たような存在だろう。現代の日本に疎外感を抱え自由な空間を探し求める為に、
それほど思想のことなど勉強する機会もなく、思想の上澄みを汲み取っただけで、
人間としての純粋な知であると思い込み、自己立法的なバリケードを作った空間の側から罵倒に過ぎない投石を繰り返す。

哲学には共同主観性という考え方がある。主体としての私が客体を認識するときに、
他者であればどのように認識するだろうといった考えが反映されることにって、自由だとする自分に制約を掛けることにもなる。
東大安田講堂内には求めているような自由の実感はなかった。闘争方針やイデオロギーを巡る対立が頻発し、
共同主観性の中にあった他者の母体を、内ゲバによって抹殺することで、自由の感覚を取り戻すような動きに走った。
まるでそれは、動物にとっての自由な自然状態への回帰の様相だった。

反靖国の人間も似たような存在ではないだろうか?。疎外感に包まれた自分の限りない自由を取り戻す為に、
投石を繰り返し他者を排斥する。 俺からすればその先に見えるものは、
様々な他者を通じて身につけた社会の皮がなくなることで、
剥き出しの動物のような存在が表に現われるだけのようにしか過ぎないのに。




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