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名無しさん@3周年
日本国憲法無効論

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日本国憲法無効論
952 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/12(月) 18:13:58.28 ID:sQ8qoxof

>>930

>八月革命説ではなく憲法制定の過程にあるんだろう?
>それは八月革命説云々の問題じゃないじゃん。よ〜するにクソミソ一緒に考えてるワケだw

八月革命説は、宮澤の色眼鏡から見えた現実を通して、法的規範の側面から説明したものなのだから、
宮澤が抱えた現実認識を生み出す観念と合わせて、憲法制定過程との整合性が問われて当然だろう。
事実、宮澤は「事実の要素を欠くことができないことを承認すると同時に、
法がそうした事実の要素だけで成立するという考え方を承認することを好まない」とした上で理念との整合性を追求してる。

宮澤にとっての理念もしくは現実認識を生み出す母体である観念とは何かといえば、
「人間の考え方が宗教的な信仰から解放されて合理化するにつれて、人間性のみを基礎とする合理主義的な考え方が
その勢力を増やすとともに、この傾向はいよいよ強くなる。そして、その結果、多人数の間に共通の正義の内容が歴史的経験的に成立。
ケルゼンの考えも、決してそういう可能性を否定するものではない。」
つまり、人間中心主義的な合理的な考えに至る傾向は、普遍的な歴史的な流れに沿ったものだとするもの。
ケルゼンにしても、そうした理念から実定法を眺める可能性までは否定していないと言ってることになる。

問題なのは、事実や実定法を眺めるにしても、そうした理念が抱える眼差しが必ずしも正しいとは言えないということ。
60年代以降の現代哲学では、人間中心主義や物語的な歴史観や、
個別的な社会性を問わないような合理的といった普遍主義的な考えは否定の対象であり、
そうした否定の上に、現代哲学は成り立っていると言っても良いほどであり、このようなスタンスからいえば、
宮澤が抱えていた理念や認識自体が、現代から言えば錯誤的なものだと言える。

つまり、「法学は現実に優位しない。」といった観点から考えても、現実認識そのものに危うさがあり、
”現実に優位しない”といった背景には、こうした啓蒙主義的な押し付けが法学的な解釈に及んでおり、
宮澤のような進歩主義的な考えから距離を置くような人間からすれば、違和感の源泉になっていると言えるだろう。


日本国憲法無効論
953 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/12(月) 18:40:02.84 ID:sQ8qoxof
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81002101.pdf 参考資料はこれね。

日本国憲法無効論
955 :名無しさん@3周年[sage]:2011/12/12(月) 22:14:11.98 ID:sQ8qoxof

デモクラシーが政治理論家の中で前向きに捉えるられるようになったのは19世紀後半以降で、
それまでは、気まぐれな恩知らずの民衆による支配といった衆愚政治的な否定的ニュアンスの抱えた言葉だった。
しかし、17世紀以降において正統的な物とはいえなかったが、新の民主的政体は新の民主的社会に基礎を置くべきだといった、
統治政体のあり方を超えた、力強い主張がなされるようになり、イズム的なニュアンスが含まれることになった。
こうしたニュアンスと共に、19世紀以降にデモクラシーという言葉が広く世界に流通し、日本にも伝わることになったじゃないか。
よってデモクラシーを民主主義と訳すことは、西欧におけるデモクラシーが抱える認識から大きく外れるものではないと思うぞ。

参考資料: 新キーワード辞典 文化と社会を読み解く語彙集 Tベネット/Lグロースバーグ/Mモリス 「民主主義」より





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