トップページ > 政治 > 2011年10月14日 > K1DZIXuk

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( ○´ー` ○)はカワイイ ◆2.r4M.pJ.RBR
天皇制廃止

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天皇制廃止
580 :( ○´ー` ○)はカワイイ ◆2.r4M.pJ.RBR [sage]:2011/10/14(金) 08:44:20.63 ID:K1DZIXuk
ステレオタイプのマルクス主義批判では今日的な課題や、それと取り組むネグリらの試みは理解できまい。
ネグリはポスト・グローバリゼーションを想定して、ハートとの共著「帝国」を著し、マルチチュード論を
展開したが、こうした試みは後の「マルチチュード―<帝国>時代の戦争と民主主義」でより深く考察し、
新たな左翼運動の在り方として国家を越えた情報の共有や市民の有機的な協調関係を提言して注目を浴びた。

こうした試みには対しては、賛否を含めて哲学分野や世辞分野からの評論が数多く展開されており、
共産国家群の崩壊以降、アメリカを中心とした一極集中の新帝国主義とネオ・リベラルにみられる、
資本の寡占化や富の集中化、或いは流動性の停滞など「新帝国主義」の次に来るモノを想定している。
こうした考察をしている研究者にはアメリカではスティーヴン・ハウがいるし日本では田中明彦がいる。
彼らは共にネグリに対しては懐疑的だが、ポスト・グローバリゼーションである立場という意味では
共通しているといっていいだろう。

現在起きているいわゆる「アラブの春」運動やアメリカの大規模なデモ運動は、ネグリらの考えの正しさが
現れた現象と言っても過言ではない。ネグリの分析は現実の運動体として実体化してきた。

確かにネグリに対する批判として「実証生に乏しい」とか、「レーニン主義的」といったモノがあるが、
少なくとも資本が国境を越えてる以上、マルチチュードも国境に拘束されることなく展開すべきだとする
彼の主張には一定のリアリティがある。

天皇制廃止
581 :( ○´ー` ○)はカワイイ ◆2.r4M.pJ.RBR [sage]:2011/10/14(金) 08:46:40.76 ID:K1DZIXuk
二段目にの「世辞分野」は「政治分野」の書き間違い。

天皇制廃止
586 :( ○´ー` ○)はカワイイ ◆2.r4M.pJ.RBR [sage]:2011/10/14(金) 09:56:32.07 ID:K1DZIXuk
>>584
それはフランクフルト学派に求める論調もあるし(彼らはドイツの低所得者層や無教養層が
望んでナチスを支持したことをベースとして日本の右傾化を説明しようとしている)、
戦後の右旋回を経て復権した右派政治家らが、児玉誉士夫らのフィクサーを使ってヤクザを
中心に右翼団体を組織して左派の労働運動や安保闘争に圧力を掛け、日韓の国交回復の利権に
絡んだ右派らが統一教会のよ〜な反共宗教組織を「勝共連合」として積極的に採り入れ、
それらを潮流として底辺層を囲い込んだととする論調、ネットの普及によって右派のプロパガンダに
無批判に呼応する若年層を取り込んだとする論調などがあるが、それらの要因が複合的に
顕在化したと見る向きもある。

昭和維新を目指した戦前の若手将校らによる幾つものクーデターは、農村部出身者が多く
財閥らによる資本の集中に対する不満が大きな要因でもあったが、彼らとて右翼思想家の
大川周明らいに依拠していたワケで(大川は満鉄の関係から満州の陸軍利権と深く関わっていた)、
右派らの思想は昔から利権まみれだった。

天皇制廃止
588 :( ○´ー` ○)はカワイイ ◆2.r4M.pJ.RBR [sage]:2011/10/14(金) 10:32:41.45 ID:K1DZIXuk
>>585
アメリカでは資本家や経営陣らが日本とは比べものにならない位に利益を占有しているため、
学生や失業者からの批判が大きい。そうゆ〜意味では日本とは問題の構造が違ってるとも言える。

日本の場合は新自由主義的な経済政策によって中間層(いわゆる中流層)のボリュームが減少し、
貧困率が高まってるのが問題と言えよう。経済が堅調だった時代に労使双方が対立を望まず、
労組が形骸化されている状況で資本家に有利な政策を行ったために、ブルーカラーを中心とした
労働者の権利の軽視化が促進した。秋葉原事件の様な散発的な不満の爆発を起こさないためには、
本来であれば労組のような組織や非営利団体などが受け皿となって問題解決に取り組むべきだが、
現実には疎外された人々は頼るべき組織もなく、個としての不満や孤独感を募らせてる。

一部には格差社会は均質な労働力を提供する意識が希薄な若年層らが自ら望んでいるとする
論調もある。労働時間の提供は、自分の自由な時間に見合わないとする若者側の希望でもあるから、
一概に社会構造の変化だけでは解決しないというワケだ。(三浦展の「下流社会」でも振れられている)

天皇制廃止
589 :( ○´ー` ○)はカワイイ ◆2.r4M.pJ.RBR [sage]:2011/10/14(金) 10:51:26.18 ID:K1DZIXuk
以前から時折見ていたのだが、この人の論評は割と面白い。

ポストモダンと右翼国家主義という構造配置で現代日本の思想状況を捉えようとする論者が出て来ないのは
何故だろうかと私はいつも不思議に思っている。登場するのは常にそのどちらかか、どちらかの亜流であり、
資本と世論と本屋に阿ることと媚びることだけが得意な低レベルな商業主義的評論家のみである。脱構築の
言説が実践的説得力がなく、現実の政治問題の批判や解決から逃避しているから右翼国家主義に世論が靡く
のではないのか。アカデミーが脱構築の異質な言語世界に閉塞したから大衆は右翼国家主義の実践的テーゼ
の方に魅力を感じたのではないのか。そして脱構築サイドによる近代主義と社会主義への攻撃と破壊こそ、
右翼国家主義にとっての目標そのもので、まさに決定的な「左右共闘」ではなかったのか。

未完のプロジェクトである日本の戦後民主主義が、一般表象として現在これだけ矮小化され貶損されている
のは、一にも二にも脱構築主義者のせいである。憲法の理念を説いて再興を図るのにこれだけエネルギーを
要するのは、この二十年間、アカデミーの権威となった元左翼の脱構築主義者が憲法の理念を傷つけ唾を吐
き続けてきたからである。ネグリ=ハートの<帝国>論の前提は国民国家の役割の後退という認識で、すなわ
ちブルジョワジーの主権形態である国民国家が時代を支配するのが近代であり、国民国家に代わって<帝国>
が主権の位置に来るとき、新たなポスト近代が始まると言っている。

だから<帝国>論においてもマルチチュード論においても、国民国家の後退と消滅という方向が基本的に前提
されている。なるほどと頷きながら、ふと思ったのは、ネグリ=ハートの<帝国>論において中国はどのよう
な位置づけにあるのだろうかという問題だった。二人はポスト近代における中国(社会主義市場経済)の意
味と存在をどう捉え描いているのだろう。

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