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名無しさん@3周年
■■■三島由紀夫の檄文■■■

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■■■三島由紀夫の檄文■■■
232 :名無しさん@3周年[]:2011/03/02(水) 10:01:31.31 ID:2xeyoMuN
(中略)彼らは政権の一端でも握れば、これをいつも共産政権へのワン・ステップとして利用することに全力を
あげるであらう。(中略)そして、全アジア諸国において容共政権が容共政権のままとどまつた例はないのである。
容共政権は共産党の一党独裁への準備段階として徹底的に利用され、むしろこのやうな緩慢な移行の方が、
急激な武力革命による移行よりも彼らの歓迎するところである。国家支配機構はこれを一朝一夕にくつがへすよりも、
一年、ないしは二年の時間をかけて下部から侵蝕し、国民生活表面上を何ら動かさないままに、徐々に行政機構の
下部から改めていくことが賢明なことは勿論である。
したがつて共産勢力と行政権とをほんのちよつと連結させれば、そこで何が起るかは、チェコの二千語宣言が
よく証明してゐる。さうなつたときには遅いのであり、さうなつたときには、イデオロギーよりも秩序を重んじた
一般大衆は初めて目ざめて、自分たちの考への誤りを悟るであらう。
しかし、われわれ反革命の立場は、現在の時点における民衆の支持や理解をあてにすることはできない。

三島由紀夫「反革命宣言」より
■■■三島由紀夫の檄文■■■
233 :名無しさん@3周年[]:2011/03/02(水) 10:02:10.56 ID:2xeyoMuN
われわれは先見し、予告し、先取りし、そして、民衆の非難、怨嗟、罵倒をすら浴びながら、彼らの未来を
守るほかはないのである。
さらに正確に言へば、われわれは彼らの未来を守るのではなく、彼らがなほ無自覚でありながら、実は彼らを
存在せしめてゐる根本のもの、すなはち、わが歴史・文化・伝統を守るほかはないのである。これこそは
前衛としての反革命であり、前衛としての反革命は世論、今や左も右も最もその顔色をうかがつてゐる世論の
支持によつて動くのではない。
われわれは先見によつて動くのであり、あくまで少数者の原理によつて動くのである。
したがつて反革命は外面的には華々しいものになり得ないかもしれないが、革命状況を厳密に見張つて、もし
革命勢力と行政権とが直結しさうに時点をねらつて、その瞬間に打破粉砕するものでなければならない。
このためには民衆の支持をあてにすることはできないであらう。いかなる民衆の罵詈雑言も浴びる覚悟をしなければ
ならない。その形は、場合によつては人民裁判的な攻撃によつて、民衆になぐり殺されることもあるかもしれない。

三島由紀夫「反革命宣言」より
■■■三島由紀夫の檄文■■■
234 :名無しさん@3周年[]:2011/03/02(水) 10:03:00.91 ID:2xeyoMuN
しかし、われわれは民衆の現在ただいまの状況における安価な感傷的盲目的な心理に阿諛追従して、それを背景にし、
あるひは後楯にして行動するのではないから、当然のことである。
われわれは新宿動乱で、モップ化がどのやうな働きをするかつぶさに見た。あのモップ化は日本の何物かを
象徴してゐる。あのモップ化こそは、日本の、自分の生活を大切にしながら刺戟を期待し、変化を期待する民衆の
何物かを象徴してゐる。
あのモップ化によつて反革命がどのやうな攻撃にあふかは目に見えてゐるけれども、それに立ち向ふには、
われわれは自分の中の少数者の誇りと、自信と、孤立感にめげないエリート意識を保持しなければいけない。
政府にすら期待してはならない。政府は、最後の場合には民衆に阿諛することしか考へないであらう。世論は
いつも民主社会における神だからである。われわれは民主社会における神である世論を否定し、最終的には
大衆社会の持つてゐるその非人間性を否定しようとするのである。
では、その少数者意識の行動の根拠は何であるか。それこそは、天皇である。

三島由紀夫「反革命宣言」より
■■■三島由紀夫の檄文■■■
235 :名無しさん@3周年[]:2011/03/02(水) 10:03:34.18 ID:2xeyoMuN
われわれは天皇といふことをいふときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるといふやうな
時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。なぜなら、われわれの考へる天皇とは、
いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のやうに、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、
このやうな全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するやうな勢力に対しては、われわれの日本の
文化伝統を賭けて闘はなければならないと信じてゐるからである。
われわれは、自民党を守るために闘ふのでもなければ、民主主義社会を守るために闘ふのでもない。もちろん、
われわれの考へる文化的天皇制の政治的基礎としては、複数政党制による民主主義の政治形態が最適であると
信ずるから、形としてはこのやうな民主主義政体を守るために行動するといふ形をとるだらうが、終局目標は
天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するやうな政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。

三島由紀夫「反革命宣言」より
■■■三島由紀夫の檄文■■■
236 :名無しさん@3周年[]:2011/03/02(水) 20:43:37.51 ID:2xeyoMuN
Q――五社英雄監督の印象は?

三島:ぼくは、非常にこの人物が好きになつた。会つたのは初めてですけど、いい人です。映画監督特有の、
もつて回つたやうな芸術家気取りがない。そして好きなものは好き、きらひなものはきらひとして、なんら
映画界の権威を認めてゐない。自分の好きにとつちやふんだ。映画界からみれば、こんなに腹の立つ男はゐないと思ふ。

Q――映画に出演するといふこと、三島さんがおつしやつてる「行動」とか、「肉体」とかを結びつけると……

三島:世間では、みんな結びつけたがるから、何もかも結びつけちやふんだけど、ぼくは人間を、さういふふうに
一元的に統一しようといふのは、現代の悪い傾向だと思ふ。なるべく、ワクからはづれることが、人間にとつて
大事だといふ考へをもつてゐる。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
■■■三島由紀夫の檄文■■■
237 :名無しさん@3周年[]:2011/03/02(水) 20:44:10.50 ID:2xeyoMuN
たとへば、いちばん崇高でもあり、つぎの瞬間にいちばん下劣でもあるのが人間なんですよ。ぼくは、さういふ
人間を考へる。崇高なだけであつてもウソに決まつてゐる。また下劣なのが人間の本当の姿だ、といふ考へ方も
大きらひなんですよ。それは自然主義的な考へ方で、十九世紀に、ごく一部にできた迷信ですよ。人間は崇高であると
同時に下劣。だから、ぼくのことを下劣だと思ふ人があれば、それでもかまはない。ぼくの中にだつて、
「一寸の虫にも五分の魂」で、崇高なものもある。それを、ぼくは自分でぼくだと思ふ。
むりやりに結びつけて、論理的に統一しようつたつて、できるものではない。ただ思想的には節操は大切だと
思ひますけど、それと人間の行動の一つ一つ。つまり節操の正しい人は、どんなクソの仕方をするのか。いつも
まつすぐなクソがでてくるかといふと、そんなものぢやない。節操の正しい人でも、トグロを巻いちやふ。
節操の曲がつた人でも、まつすぐなクソが出るかもしれない。そんなこと関係ないですよ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
■■■三島由紀夫の檄文■■■
238 :名無しさん@3周年[]:2011/03/02(水) 20:44:38.23 ID:2xeyoMuN
Q――かなり全共闘に共鳴するところがあつたんぢやないですか。

三島:それは共鳴するところもあるし、反発するところもある。自民党の人間と会つたつて、それは同じことだ。

Q――全共闘の立ち場を幕末でいふと……。

三島:幕末にはないよ。幕末は一人でやれなければいけない。みんなからだを張つてゐますね。一人でやれると
いふことは、サムラヒの根本条件ですよ。一人でやれるやつは、全共闘に一人もゐないぢやないですか。みんな
集団の力を組まなければ、何もできない。一人で連れてきて胸ぐらをつかんだら、みんなペコペコするだけですよ。
そんなのサムラヒぢやない。したがつて、明治維新に類型を求めることはできませんね。

Q――サムラヒといふことについて、もう少し詳しく説明をしてください。

三島:要するにサムラヒといふのは、一人でやれるといふことですよ。その精神だね。それしかないと思ふ。
外人の中で、よく全共闘を幕末の志士にたとへるやつがゐるんだけれども、とてもぼくは怒るんですよ。
とんでもない。精神が違ひますよ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
■■■三島由紀夫の檄文■■■
239 :名無しさん@3周年[]:2011/03/02(水) 20:45:24.98 ID:2xeyoMuN
Q――文学者としての三島さんが、時務の文章を書くのは……。

三島:つまり文学といふものは、死んだものぢやない。生きて動いてゐるものだ。お茶器みたいに、きれいなものを
作つて、戸だなにしまつておくものぢやない。動いてゐるものだ。一方で、美しい文学を書くためには、喜んで
ドロ沼の中へ手を突つ込まなければダメだと思ふ。手を汚さないことばかり考へたんぢや、文学はダメになつちやふ。
たまたま病気でサナトリウムにはひつてゐる、といふなら、それはいいよ。運命だからね。

Q――その人にとつては、それがドロ沼の中に手をつつ込んだことになるわけですね。

三島:その人にとつてはさうだ。病気といふものはさうだらう。宿命だから……。だけど、からだが丈夫で、
生きて動いてゐる人間が、ドロ沼のそばを着物が汚れるからと、よけて通るのは作家ぢやない。ぼくはさう思ふ。
ドロ沼にはひつて、おぼれるかもしれないけれど、おぼれる危険を冒して、生きてゐなきや小説は書けない。
ドロ沼にはひつたとき、どういふふうに表現するか。人間だから考へますね。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より
■■■三島由紀夫の檄文■■■
240 :名無しさん@3周年[]:2011/03/02(水) 20:45:55.19 ID:2xeyoMuN
それは、濾過されて文学になる部分もあり、いくら濾過しても文学にならん部分もある。ドロ水を飲料水にするための
濾過装置があるでせう。濾過装置の中で、残つたドロと飲料水になる水とあるけど、残つたドロがいらないもので、
捨てちやつていいものかといふと、ぼくはさうぢやない。それが現実なんだ。現実を避けることはできないね。
現実を避けて自分が象牙の塔に閉ぢこもるときには、象牙の塔の純粋性が保たれなければ死んでしまふ。
ぼくは、文学を象牙の塔だと考へてゐる。水晶のお城だと考へてゐる。それを大事にしておくためには、作家が
ドロ沼へはひらなければ、といふパラドックスがある。ぼくはさうだと思ふ。

三島由紀夫「ぼくは文学を水晶のお城だと考へる」より


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