- 【邪馬台国】「死せる孔明 卑弥呼を・・・」孔明死去→仲達、公孫氏(朝鮮)征伐→卑弥呼、魏に従属★2 [しじみ★]
143 :名無しのひみつ[]:2020/10/01(木) 04:31:50.48 ID:JsxjV4cD - 旧唐書の「日本国(ヤマト)は倭国の別種なり」という記述は
壬申の乱のうわさを反映したもの。 大海人皇子(おおあまのおうじ)には美しい恋人、額田王(ぬかたのおおきみ)がいた。 天智天皇は額田王を譲るように話を持ちかけてきた。 天智天皇と大海人皇子は血のつながる兄弟(大海人皇子が弟)。 額田王は天皇のもとへ、代わりに大海人皇子には天智天皇の娘2人が与えられた。 つまり姪を妻にしたのだ。 姉の大田皇女(おおたのひめみこ)と妹の鵜野讃良(うののさらら、後の持統天皇)である。 近江京で病の床にあった天智は、枕元に弟の大海人皇子(後の天武天皇)を呼び寄せて言った。 「わたしの病は重い。お前に後を譲りたい」 意外な兄の言葉に、大海人皇子も一瞬真意をはかりかねたが、きっぱりと答えた。 「いや、けっこうです。皇位は倭姫皇后にお譲りください。政治のことは長子の大友皇子に おまかせなさい。わたくしは出家し、吉野に籠って天皇の御平癒を祈りたく存じます」 長男にあたる大友皇子(おおとものおうじ)が本命だというのを悟っていた大海人皇子は、 我が子 高市皇子(19才)と大津皇子(10才)を人質同然と知りながら近江に残し、 自らは鵜野讃良(後の天武天皇)らを引き連れ奈良の吉野に籠った。 西暦672年、弘文天皇元年、天武天皇元年、皇紀1332年、 唐の3代目皇帝高宗(こうそう)の治世咸亨3年(唐の滅亡は907年)に 天智天皇が亡くなると、近江京では兵を整え大海人皇子を討つ準備が進行していた。 吉野へは食料を運ぶ道も朝廷により封鎖され、身の危険を感じた大海人皇子は 美濃を拠点に挙兵した。 これが古代日本最大の内乱、飛ぶ鳥の飛鳥時代の「壬申の乱」のきっかけ。 纒向遺跡のある桜井での戦い、最後の決戦場所となった瀬田川の決戦も 大友皇子を中心にしてきた近江朝廷が敗れ、 大海人皇子の勝利に終わった。 当時の中国側には、壬申の乱によって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したと目に映ったらしい。 「歩く万葉学者」として有名な犬養孝博士も天智系が終わり天武系が始まったという見解を発表している。
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