- 【邪馬台国】 邪馬台国論争 畿内説と九州説 永遠の平行線 ★3 [しじみ★]
261 :名無しのひみつ[]:2020/06/26(金) 20:13:52.05 ID:K/1QmTs+ - 纏向の桃の種が祭祀の貢物だとか言い張ってる桜井市のバカかw
桃の種が発見された場所からして建物とは無関係 https://i.imgur.com/xOM3DEb.png 印象操作でこじつけて無理やり参戦してるのが畿内説w 元石器時代捏造事件メンバー一同でw
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- 【邪馬台国】 邪馬台国論争 畿内説と九州説 永遠の平行線 ★3 [しじみ★]
262 :名無しのひみつ[]:2020/06/26(金) 20:16:10.45 ID:K/1QmTs+ - 日本の考古学者が世界からバカにされる理由
日本の考古学会は「群盲象を撫でる」状態w 理論なき考古学 細谷 葵(ケンブリッジ大学) http://www.okayama-u.ac.jp/user/arch/news/whatnew/hosoyaj.html
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263 :名無しのひみつ[]:2020/06/26(金) 20:18:09.35 ID:K/1QmTs+ - 行き当たりばったりで妄想を垂れ流す畿内学者w
■The箸墓円墳説 箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり「百余歩」よりも桁違いに大きい。 長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、墳長としては短い。 だから、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。
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- 【邪馬台国】 邪馬台国論争 畿内説と九州説 永遠の平行線 ★3 [しじみ★]
264 :名無しのひみつ[]:2020/06/26(金) 20:20:15.93 ID:K/1QmTs+ - 魏志倭人伝には、当時の倭国には馬はいなかったと書いてある
■箸墓古墳で馬具出土 2001年12月 「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」 奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、 木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、 「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具 である可能性が高い」 と発表した。 ■参考 ・半島・日本ともにこれまで出土してきた馬具は5世紀のものが最古である。 ・馬具研究史より 『樋口隆康「鐙の発生について」は、中央アジアの騎馬民族に 鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に 足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、 中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。』 ■朝鮮人的歴史歪曲 数々の印象操作で創造してきた畿内説を維持しようとするがために、 奈良が中国や半島よりも先に馬を導入していたかのように歴史を 歪曲する畿内教信者
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- 【邪馬台国】 邪馬台国論争 畿内説と九州説 永遠の平行線 ★3 [しじみ★]
265 :名無しのひみつ[]:2020/06/26(金) 20:21:46.98 ID:K/1QmTs+ - 畿内説学者(松木氏)の見解
北部九州では紀元前1〜2世紀、朝鮮半島から鉄の素材が入り、加工して流通するようになった。 弥生時代、倭で最初に本格的な金属器社会に入った地域だ。 初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。 ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。 北部九州は交易が盛んで、鉄も豊富にあり、経済的にも進んでいた。 空間的、階級的にも分散して社会形成が進んだ。 イメージしやすいのは、みんなで豊かになる「共和制」だ。 これを奈良(纏向遺跡等)の出土品が否定してしまっているというのが現状。 ■弥生時代の鉄の出土量 https://i.imgur.com/eRF3Zza.png
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- 【邪馬台国】「死せる孔明 卑弥呼を・・・」孔明死去→仲達→公孫氏(朝鮮)征伐→卑弥呼、魏に従属 [しじみ★]
683 :名無しのひみつ[]:2020/06/26(金) 21:55:39.36 ID:K/1QmTs+ - 実は当事者達も畿内説がおかしいという事に気づいていた
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長 私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、 発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が 見られないことに気付いた。 代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと 比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、 西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。 であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、 なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと 考えざるを得ない状況とみた。 では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。 となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
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269 :名無しのひみつ[]:2020/06/26(金) 21:55:57.95 ID:K/1QmTs+ - 実は当事者達も畿内説がおかしいという事に気づいていた
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長 私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、 発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が 見られないことに気付いた。 代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと 比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、 西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。 であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、 なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと 考えざるを得ない状況とみた。 では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。 となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。
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