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【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5

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【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
74 :nn[]:2018/09/11(火) 16:02:45.27 ID:PaMIlOIb
>>65
『古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究』より

「久住(1999a)は古墳出現前後の時期を
IA期が弥生V様式末(纒向1類,河内の庄内1式)≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期は纒向2・3類,河内の庄内II〜III式   ≒ 古墳開始期(3世紀中期)
IIA期が纒向3,4類,庄内III〜IV
IIB期が纒向4類5類庄内IV〜V 
IIC期が布留1式
におおむね併行する

箸墓の出現を久住はIIA期と捉える。」

これを踏まえて比恵・那珂のある筑前の土器編年

【筑前】
「筑前地域の特に福岡平野と糸島平野には,三角縁神獣鏡を副葬した前期古墳が複数立地し,古墳時代初頭よりヤマト王権との交流が密であった地域と考えられる。…那珂八幡古墳(全長75m[czr−28])が出現する。…IB期,新しく見積もってもIIA期におく」

久住さんは箸墓の出現をIIA期と捉えているので判断に迷っていますが,「那珂八幡古墳の出現期は早く見積もってIB期」となります。
すなわち
IA期 ≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)


P276
「外来系土器については,弥生時代後期後半からすでに瀬戸内系,東海系,山陰系土器の搬入品があった。」

瀬戸内と山陰は分かりますが,東海からというのが意外でした。
強調しておきますが『畿内の土器は搬入(出土)されていない』ことが分かります。

「『古墳出現前後』の時期には鼓形器台といった山陰系,庄内大和型・播磨型甕,布留甕といった近畿系,元屋敷系高杯・S字甕A・B類,パレス壺
といった東海系,讃岐系の甕・大型壺などの搬入土器が多くなる。
朝鮮半島からは前述の楽浪系,馬韓系土器のほか.加耶(・新羅)系の瓦質・陶質,軟質土器も搬入されている。」
「土器相はIIA期には庄内系と布留系に転換し,在来系は大甕などにわずかに残るのみとなる。」

これも強調しておきますが「弥生終末期に北部九州が畿内連合に吸収された」→「古墳時代」であり,「古墳の計画から建設にかかる年月」を考えても
北部九州が畿内連合に吸収されたのは「古墳が出現する少なくとも数年以上前」ということです。

P278【比恵・那珂遺跡群】
「遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」

「IA期…この段階では,庄内甕は導入されていないようである。
 IB期に,筑前の他の地域に先駆けて庄内甕が受容され,在地模倣生産が直ちに開始される。
  …報告された甕7点の内,2点が庄内大和型甕 3点はそれを在地で模倣
 IIA期は,庄内甕も残るものの,布留甕が出現する段階である。
  …搬入品の庄内大和型甕1点,布留系甕口縁部破片1点が報告されている。その他の器種もすべて畿内系で,在地の土器を一切含まない,
 IIB期は,比恵・那珂遺跡群の甕に関しては畿内系が他を圧倒する段階である。」

比恵・那珂遺跡群でも畿内連合の流入はIB期以降であり,しかも北部九州の土を使って生産したのは畿内から来た職人と考えられます。

どこかおかしい点(嘘,ねつ造)がありましたか?
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
77 :nn[]:2018/09/11(火) 16:09:36.51 ID:PaMIlOIb
>>74
>久住さんは箸墓の出現をIIA期と捉えているので判断に迷っていますが,「那珂八幡古墳の出現期は早く見積もってIB期」となります。
すなわち
IA期 ≒ 弥生終末期(3世紀前期後半)
IB期 ≒ 古墳開始期(3世紀中期)

もちろん1年の狂いもなくビシッと決まるものではなく数年〜数十年(百年)前後するのは仕方ありません。
私は弥生・ 古墳時代の境目をIA後期と考えています。
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
78 :nn[]:2018/09/11(火) 16:45:02.23 ID:PaMIlOIb
>>74
>どこかおかしい点(嘘,ねつ造)がありましたか?

資料を偏見なく読み解けばよいだけですし
仮説が正しければ,実地に得られたデータが勝手にそれを裏付ける方に動いてくれます。

「出雲」を「投馬とも読めるぞ」等と試行錯誤するのは悪いとは言いませんが
よそ様の遺跡や墓を根拠もなく勝手に「邪馬台国の関連遺跡」や「卑弥呼の墓」にして
「それ以外に考えられない」と断定して扱うのはいかがなものかと思います。

「これはもしかするとよそ様と間違えてるかもしれない」と慎重に扱うべきだと思います。
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
90 :nn[]:2018/09/11(火) 19:31:02.91 ID:PaMIlOIb
>>74
(他の文献も踏まえて)ここからわかることは
IA期すなわち(3世紀前期後半頃とみられる)弥生終末期には,「北部九州と畿内は(ほとんど)通交していない」ということです。
魏志倭人伝により少なくとも「北部九州」は「邪馬台国(倭国)側勢力」といえる地域であり,北部九州とほとんど通交していない「畿内」が邪馬台国とは考えられません。

また邪馬台国はこの時期,(日本国内の国でありながら)「魏と結んだ(というより朝貢した)国」です。
そればかりか魏の使者が(女王卑弥呼に会うためと倭国をつぶさに調べるため)本当に日本列島まで乗り込んできたのです。

これが「非邪馬台国側の周辺国に与えたインパクトは激しいものがあった」と考えられます。
そのとき「共通の問題に直面した各国」がどのように行動するかは自然と分かると思うのですが。
少なくとも「外国の橋頭保となりうる国」をそのまま放置するはずはありません。
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
94 :nn[]:2018/09/11(火) 20:03:51.60 ID:PaMIlOIb
>>74
>【比恵・那珂遺跡群】「遺跡内には九州最古の前方後円墳と久住(2002)が解釈する那珂八幡古墳[czr−28]が築造され,纒向遺跡・箸墓の関係と共通する。」

これから分かるのは,この時期「箸墓」の畿内勢力は(段階的に浸透したのではなく)「(ほとんど)ダイレクトに到達した」ということです。
おそらく畿内側の北部九州内の駐屯地とも言える中心地が 比恵・那珂だったのでしょう。

そしてこの時期より,「北部九州の鉄器生産や絹生産の技術者」が畿内や本州各地に連れ去られるわけです。
もはや国としての機密性は崩壊しており,やりたい放題で「全面降伏」状態といってもおかしくありません。

ただ,北部九州は抹殺されたわけではなく連合政権「ヤマト王権(大和朝廷)」の一員として迎え入れられることになります。
(台与が生きていたとしたら,畿内まで連れていかれたかもしれません)
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★5
99 :nn[]:2018/09/11(火) 20:17:03.58 ID:PaMIlOIb
>>97
それで嘘,ねつ造はありましたか?
「出雲を根拠もなく投馬国扱いする」方が「嘘,ねつ造」ですよね?


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