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ニュースソース検討中@自治議論スレ
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★4

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【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★4
611 :ニュースソース検討中@自治議論スレ[sage]:2018/09/07(金) 09:53:44.23 ID:z24moMuN
>>606
えーと、佃収氏をやたら推してくれてるけど、どうみてもトンデモでしょ?この人?

こんなんだよ?
『「220年〜230年」頃、朝鮮半島の倭国は韓に侵略されて亡びる。卑弥呼は北部九州に逃げて来て伊都国王朝と戦い勝利する。「238年」に魏へ朝貢して「倭王」となる。日本列島に初めて「倭国」は誕生する。朝鮮半島の倭国の再興である。
 日本史に「貴国」がない。神功皇后が樹立したのが「貴国」である。現在の日本史は欠陥の日本史である。
 「4世紀〜5世紀」に多くの渡来人が来る。これらの渡来人を「万世一系」の天皇に組み入れている。『古事記』『日本書紀』の「万世一系」は天武天皇による「捏造」である。
 「倭の五王」は「筑紫君」である。日本列島を統一している。
 「倭王武」は日本列島で初めて天子となり、年号を建てている。「年号」は「九州年号」から現在まで続いている。
 「531年」の「磐井の乱」で物部麁鹿火は主君筑紫君(倭の五王)を伐ち、「物部麁鹿火王権」を樹立する。「538年」の「仏教伝来」は物部麁鹿火王権下での出来事である。
 「552年」に物部尾輿は物部麁鹿火王権から王権を奪い、福岡県鞍手郡に「俀国(阿毎王権)」を樹立する。』
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★4
612 :ニュースソース検討中@自治議論スレ[sage]:2018/09/07(金) 09:56:45.25 ID:z24moMuN
>>610
>年代の方も100年単位の幅だろ
>誤差を大目にみても根拠として無理

古墳時代の始まりが、編年論議の焦点なんだよ
古墳時代が早く始まっていれば、それで決着になる

で、今回の誤差は、古くなる側に広くずれてる誤差だから、
古墳時代の始まりが誤差を大きく取るほど、古くなる

卑弥呼の時代より先に、
古墳時代の始まり=纏向遺跡が都とされていた時代があれば
それで決着

今回の測定で、誤差が100年単位であっても、そこが確認できるから
問題ないんだよ
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★4
627 :ニュースソース検討中@自治議論スレ[]:2018/09/07(金) 11:17:21.56 ID:z24moMuN
>>624
>松浦川沿いに陸行して南東の伊都国に行った畿内説の話はどうなったのかな

>>597に既に書いてある
再掲

魏志倭人伝は複数のソースをまとめて書かれている

古い記録では(帥升の頃か)、海を渡ったら唐津(末盧國)に上陸して、
松浦川沿いに陸行して佐賀に抜けるルートが記されていたと考えられる
帥升が倭面土王と記録されているが、面土をメタと読めば吉野ヶ里近くの
米多郷に通じる
旧事本紀には米多国造があり、米多に地域首長がいたことが認められる

そこまで確認すれば、末盧國からの東南陸行五百里は、伊都国行きではないと考えるのが妥当

伊都国で一大率が臨津搜露することを合わせて考えれば、伊都国(三雲遺跡群)、
奴国(比恵那珂遺跡群)に向かうのであれば、末盧国に上陸して伊都国まで陸行するのは
そもそも不合理

実際には伊都国まで直接船で向かったのだろうが、そこに古い記録「末盧国に上陸して
佐賀(米多?)に向かう陸行」が紛れ込んで、正しくない方位、不合理な旅程(陸行)が
記されている訳だ

魏志倭人伝の旅程記事はこの程度の精度

この旅程記事の無理読みだけが九州説の根拠なんだから、九州説は終わってる
【邪馬台国畿内説が最有力に】〈動画あり〉卑弥呼の時代?纒向遺跡出土の桃の種 西暦135〜230年のものと判明 奈良・桜井市★4
639 :ニュースソース検討中@自治議論スレ[sage]:2018/09/07(金) 12:55:29.62 ID:z24moMuN
>>635
>東南にある伊都国の場所も違うようだし
>畿内説の言う背振山脈超えの難関ルートに興味ある
>その続きをどうぞ

日本語読めてるか?

伊都国は、糸島市、旧怡土郡の三雲遺跡群が、伊都国の比定地であることは変わらない
「東南にある伊都国の場所」などというものはない
現実の地図で言えば、末盧国(唐津)から見て、伊都国(糸島三雲)は北東方向

「背振山脈超えの難関ルート」なんてのもない
魏使は、伊都国まで直接船で来たはずだし、おそらくそのまま船を回して
奴国の西新町遺跡または博多遺跡の港湾に入り、そのまま日本海岸に沿って
投馬国(出雲)に向かう

邪馬台国時代の経路では、末盧国に寄るのは不合理

なので、一般に魏志倭人伝の旅程記事と言われている部分は、
むしろ倭国の地理紹介の意味合いが強いのだと思う

なので、通過していない末盧国も記してあるが、その一方で、
邪馬台国時代の出張報告書(仮称)には、末盧国がないので
より古い記録から抜書きで挿入し、その結果末盧国からの行き先が
もともと伊都国ではないのに、伊都国以外への方角・距離が伊都国行きとして
書かれてしまっていると考えるのが妥当


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