- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
114 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 07:50:46.94 ID:1RoLQ5h0 - 1、まったくろくな哲学入門書がないよね
ぼくは大学は経済学部だったので、哲学などはまったくの門外漢なのだが、 三十代になってから好んで哲学書を読んでみた。その数は百冊くらいにそろそろなるはずで、 まあ、哲学科の一般学生くらいには哲学に詳しくなったつもりである。 で、見渡しても、ろくな哲学入門書がない。やはり、哲学入門書や哲学解説書を読むよりは、 哲学書そのものを恐れることもなく読むのがいちばんのおすすめである。 百冊の哲学書を読んだといっても、その真意を汲み取れたかは別にすれば、 読むのが不可能だった哲学書はウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」だけである。 「論理哲学論考」だけは、数式がいっぱい使ってあって書いてあり、数式の記号の意味がわからないから、 何をいってるんだかさっぱりわからない。まったく意味がわからない。 「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とか有名な語句を引いても、 何のことをどういっているのかさっぱりわからない。だから、ウィトゲンシュタインだけはぼくは解説できない。 しかし、それ以外の哲学書については、もうちょっとわかりやすく要所を抑えて解説できるのではないかと思う。 というのも、哲学書の奥義を哲学入門書が書かないのはおそらくわざとなのである。 出版社に聞いてみたわけではないから、想像にすぎないのだが、 それくらいに哲学入門書には哲学の奥義は書いていない。だからなのか、 世間の知るところの哲学の知識はたいへんに少ないとぼくが危惧しても仕方ない。 ぼくは年に百冊くらいの本を読むが、読まない人は年に一冊か二冊読めば多い方であろう。 そんな哲学にちょっと興味をもってみたけど、できるかぎり手短に説明してもらいたいという人は大勢いるはずなのである。 そんなわけで、自分で哲学入門書を書いてみることにしたわけである。まったく、世の中にはろくな哲学入門書が存在しない。
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115 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 07:51:03.81 ID:1RoLQ5h0 - ちなみに、ぼくは哲学を読むのに、初めに読んだのはカントの「純粋理性批判」である。
まったくの難物からとりかかったものである。しかし、なぜカントの「純粋理性批判」を読んだかといえば、 仏教と比較するためだった。父が死んだ時、葬式に来た坊さんが仏教について簡単な解説をしたのである。 それで、ぼくは仏教というものがどういうものなのか実際に仏典を買って調べてみることにしたのである。 で、たまたま、本が仏教書より早く、比較のために読もうと思ったカントの方が先に届いてしまい、 ぼくが初めて読んだ哲学書は「純粋理性批判」だということになったのである。 「純粋理性批判」はうわさどおり、難解な本であった。だが、 同時に、哲学って面白いかもしれないと思わせるだけの魅力はあった。 一回読んだだけでは「純粋理性批判」は理解できなかったのであるが、まあ、読んでよかった、買ってよかったのである。 では、哲学について、ぼくはこれから好き勝手に書き散らしていこうと思う。 この入門書で課題として提起されている議題は以下である。 ・強いことが正義である ・我思うゆえに我あり 読む前に、これらを論破できるのかどうか考えてから読んでもらうとより楽しめるだろう。
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117 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 07:55:23.96 ID:1RoLQ5h0 - 2、正義とは何か
まず、初めに語るのは正義についてである。哲学とは、世の中の基本的な謎について考えることなのだが、 正義とは何かについて語るのが哲学の基本である。なぜかというと、いちばん基本となる哲学書である プラトンの「国家」が正義とは何かについて語った書物だからである。 プラトンの「国家」に出てくる人物がいう。「強いことが正義である」と。なるほど、大勢の賛同者を得るであろう。 正義とは強いことだと。勝てば正義なのだ。哲学が古代ギリシャで起こってから二千年以上たつ現在でも、 こう考える人は大勢いるであろう正義の定義である。で、そんなことで哲学になりはしないのである。 プラトンが試みるのは、「強いことが正義である」を論破することなのだ。 そうだ。「強いことは正義である」を論破することこそが哲学なのだ。 で、そのプラトンが展開する議論は非常に面白いので興味をもった人はぜひ読んでほしいが、 結論をいうと、プラトンは「正しい人のが損をする」として論破する。 「正しい人のが損をする」のが現実で、正義とは行うのに困難なものなのだ。 不正な人のが得をして、正しい人が損をする。その結果どうなるかというと。 悪人が世界を支配して、善良な市民はみんな悪人に負けてしまうのだ。 これが、プラトンの描いた国家の構造である。だから、これを知った者たちは不正の人になろうとした。 ユダヤ人は、正しくある必要なんてない、みんなをだまして支配するのだ、という思想で悪の秘密結社を運営しているといわれる。 ユダヤ陰謀説がこれである。本当に、悪いことをして嘘をどんどんついて支配してしまおうということを 現実にやっているのである。神は正義だ、神の使徒は正しくあれ、なんてことは子供だましの建前にすぎないのである。 しかし、安心してほしい。現在、建国されているほとんどの国が、不正の国ではなく、正しい国であろうとしている。 正義の国であろうとしている。プラトンのいう正しい人になろうとする人たちで政府を運営している。 なぜなんだろう。ぼくにはわからない。でも、たぶん、不正の人が支配する国はすごく居心地が悪いんだと思う。 日本の歴史を見ても、だましうちや卑怯者の跋扈した戦国時代は民を疲弊させ、 その結果、戦争を禁止する江戸幕府ができて太平の世をつくりだしたのだ。 諸国争乱の結果、やはり、歴史の必然として、正しい政府が勝ち残っていくものなのである。
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118 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 07:55:39.37 ID:1RoLQ5h0 - ちなみに、これが西洋の正義の定義であり、帝王学の真髄である。
で、東洋はどうだったかというと、仏教書のサンユッタ・ニカーヤに正義の定義がある。 正義とは、目的に適ったことであると、帝釈天と阿修羅がいう。これが東洋における正義の定義である。 ぼくは、目的に適ったことが正しいという意味であるということを小学生の低学年の時に考えついて、 それを根拠に生きてきた。偶然、ぼくが小学生の時に考えた正義の定義は、東洋の仏教による正義の定義と同じであった。 みんなは子供の頃、何を正義だと考えただろうか。ネットをやっていて出会った人に、 法律が正義だと考えていた人がいた。なるほど、法律が正義だと思って生きてきたんだね。 それはそれで現実を生きるのにまちがってはいないだろう。 だが、ちなみに、現代法学の定義によると、H・L・A・ハートの「法の概念・第三版」という本には、 法律は正義ではないと書いてある。ぼくの浅い法学の知識だからそういう意見もあるのかくらいに思っていてくれればいいが、 ぼくはこう考えている。「法律は正義ではない。法律はただ世の中をうまく動かすためにただそうなっているだけである。」と。 裁判官は「おまえは正義なのか」と聞かれても、人間模様の複雑怪奇な出来事を処理する以上、 自分が正義だなどとはいえないのである。ただ、社会をよりうまく動かそうとするだけであり、 そうやって世の中を動かしているだけであり、何も自分が正義だなんて思っちゃいないし、 法律を正義としても世の中うまく動かないのである。 どんな法律にも、不具合のある出来事に遭遇することはあるのだ。
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119 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 07:59:00.57 ID:1RoLQ5h0 - 3、何が目的か
正義とは目的に適ったことであると書いた。では、人は何を目的に生きているのだろうか。 カントの「判断力批判」にはこうある。 「美学的判断力とは、快不快の感情によって判断することで、目的論的判断とは異なる。」 それをふまえた上で読んでほしい。 人間の欲でいちばん強いのは性欲だといわれる。フロイトの哲学の概念は、エロスとヴァイオレンスだといわれる。 性欲と暴力である。 エロスとは何かというと、いちばんの古典はプラトンの「饗宴」だということになるだろう。 エロスとは何かについてとうとうと、とりとめのないことが書いてある。これもおすすめなので一読願うとして、 性欲が人間の目的なのだろうか。 霊長類学にこうある。サルは、二歳から六歳にかけて脳が急速に成長する。 その後、十二歳から十六歳にかけても脳が急速に成長する。これを第二次性徴期という。 第二次性徴期の終えたサルは、性欲が強くなり、異性を求めて争うようになり、死亡率が上がる。 これがサルの人生である。 人間はサルのちょっと頭がいい程度なので基本はこれと同じ過程をとる。 ただ、人間にはただの暴力ではなく、強い優しさや協調性があるのである。 サルにも優しさや協調性はある。ただ、人間はサルより優しさや協調性が強い。 人間が優しさや協調性が強いのは人類の歴史の結果である。 優しさや協調性を求める社会が安定するのである。 優しさや協調性は、現在、未解明である。だから、優しさや協調性の神秘性を信じない人は、 暴力で異性を奪いあって喧嘩しつづけることになる。 誰も、恋愛の正解は知らない。だから、異性を求めることの正しさはよくわからない。 ひとついえることは、恋愛は平等には人を幸せにしないということである。人類は進化する。 進化するためには競争原理が必要だ。人類は競争原理をもつために、 有性生殖が始まったイソギンチャクだった時から、性欲で暴力を振るい争ってきたのである。 性の目覚めは悪いことではない。優しさや協調性は、自分の自我の確立の上に築かれるものなのである。 自分の欲が主張できて、なおかつ、優しさや協調性をもつと、健康的な大人だと思われる。 恋愛は、有性生殖が始まって以来、競争原理を産んできた。 恋愛に負ける者たちはみんなこの競争原理を憎んでいる。しかし、 万人が恋愛で幸せになれる理想郷はまずできはしないだろう。 さて、目的とは何かを語っていたら、性欲だけでかなり来てしまった。 もう少し、脱線して話そう。フロイトは、性の欲動と死の欲動を提唱したことで知られる。 死の欲動を誰もがもっているとされる。 死の欲動、死にたがる衝動、自分を傷つける衝動をもつのが人間というものである。 これを統制するのもまた難しい。次回も、また何が目的かである。
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121 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:01:50.21 ID:1RoLQ5h0 - 4、世界人類の幸せのために
何が目的かである。性欲が目的などと勝手に決められては困るのである。 性欲が目的でない人はたくさんいる。では、みんな、何が目的なのだろうか。 それぞれ好き勝手に目的をもっていることだろう。 で、現在、最も大多数に支持されている目的は、キリスト教の目的なのである。 キリスト教の目的は、「世界を幸せにすること」であるらしい。なんでも、 マタイ福音書のここに書いてあるとか、別の福音書のここに書いてあるとか、 面倒くさい説明がされるので、ぼくはよく理解していない。「愛」が目的なのである。 西洋の愛の起源は、プラトンの「饗宴」と聖書だとだいたいわかるものの、 東洋の愛の起源は、漢字の愛の起源にさかのぼる。始皇帝の制定した隷書体では、 明確に「愛」の字がある。これは性欲ではなく、慈愛を示す。古くは、「むせぶ心」が愛であったという説が有力である。 少なくとも、東洋の愛の漢字が示しているのは性欲ではなく、慈愛である。 西洋も、エロスではなく、聖書の説く愛は、慈愛である。 いやいや、聖書の説いているのは神の愛と神への愛だとかいう熱心なキリスト教徒もいるかもしれないが、 ぼくはその説は相手にしないです。ごめんなさい。 で、「世界を幸せにすること」がキリスト教の目的であり、愛の目的なのだが、 ぼくは悩んだ結果、これを「世界人類を幸せにすること」にちょっと変えた。 ぼくは蚊を殺すのである。だから、蚊の幸せに貢献できる虫愛ずる姫君ではない。 「神が宇宙の究極目的だ」といったのはデカルトであるが、ぼくはこれをよしとはしない。 だが、キリスト教の熱心な信者は、本気で「神が宇宙の究極目的」で、 神の裁きで死後、天国に生まれ変わることを目的としているので、 ぼくはこのような神学的な目的は、よしとしない。ぼくはそんなことは目的にしていない。 人それぞれである。みんなの自由だ。信教の自由は保障されている。 少なくても、ショーペンハウエルは、「我々の現存在が宇宙の究極目的であるはずがない」ということは指摘してくれている。 宇宙の究極目的が何であるにせよ、ぼくは「世界人類を幸せにすること」を目的にすることをまあ、 他に目的がなければそうしておけば何事も平穏無事にすすむんじゃないかなあと思っている。
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123 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:02:37.96 ID:1RoLQ5h0 - 以下、14話まであります。後は、自分で読んでね。
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124 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:09:49.53 ID:1RoLQ5h0 - 5、世界はどのように存在するか
世界はどのように存在しているのであろうか。これも哲学である。世界がどのように存在するのかを書いた書物はたくさんあれど、 古代においてこれとされたのはアリストテレスの「形而上学」である。 本を読んでまわりの人に自分の知性を主張するというようなことは、 あまり褒められた行為ではないが、これをするのに最も最適な本はアリストテレスの「形而上学」である。 スタバでドヤ顔して読むにはアリストテレスの「形而上学」がいちばんである。題名がすごい。 題名だけでいける。岩波文庫の上下巻の片方をもって読んで、うんうんうなっていれば、 この人は熱心に本を読んでいるのだとまあけっこう褒められるだろう。 しかし、注意することがある。この本は古代科学について書かれた書物であり、 現代科学ではまったく相手にされない書物なのである。 アリストテレスはどの哲学者がどういったといちいち几帳面に引用して解説してくれるので、 とてもためになるが。書かれているのは古代科学の四元素説についてであることには注意してもらいたい。 ある程度、哲学や社会常識に精通した人には、アリストテレスの「形而上学」なんて読んでいても何もすごいと思われない。 だが、さまざまな哲学書で引用されることも多いので、読んでも損ではないし、 四元素説はファンタジーゲームなどに影響を与えることが大きいので、 ファンタジー好きな人も原典を読んでみたいなら読んでみるといい。 四元素説が書いてあるのは、アリストテレスの「形而上学」である。 で、これが古代インドに伝わり、四元素説は五元素説に形を変え、 仏典として空海によって日本に伝えられた。その書を「秘密曼荼羅十住心論」という。 ちくま学芸文庫の書き下し文は名文なので読んでほしい。 で、空海がいうには、この世界にいちばん大きな土台は風輪なのだそうである。 あとなんとか輪がいっぱい重ねられて、この大地ができる。古代科学なので、 ヒマラヤ山脈を中心としたインド方面の地図をもって世界地図としているのが空海の「秘密曼荼羅十住心論」で、 日本はどこにあるんだと不思議に思うが、インドの仏典に日本は書いてなかったようである。 そんなわけで、古代科学はそれなりに面白いのだが、これは哲学者が好んで読んでるけど、 実用的にはファンタジーの資料にしかならないであろう。 西洋の四元素説が古代科学なら、東洋の古代科学はどうなんだというと、 「易経」に書いてある陰陽説がそれにあたる。「易経」は中国の古代科学として日本でも占いに取り入れられ、 大人気である。根拠は「易経」だし、「易経」にはなぜ王朝が交替するのかも書いてあるらしい。 実はぼくはまだ「易経」を読んでいない。実際に読んでない本について語るとひどい目にあうことがたいていなので、 今回の「易経」の話でひどい目に会いたくない。 話が長くなってしまったが、次回も、世界はどのように存在するのかである。
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125 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:12:59.66 ID:1RoLQ5h0 - 6、認識できるものできないもの
世界はどのように存在するのか。今度は、認識論の方から迫ってみよう。 世界を認識するのは、五感と意識である。五感と意識が世界を認識するといったのは釈尊で、 いちばん始めにいったのかどうかは知らないが、 釈尊の死後、作られた原始仏典には五感と意識で世界を認識しているということが釈尊の教えとして語られる。 そして、無明を消すと苦しみがなくなると説いている。 つまり、我々が認識している世界が世界の存在であり、認識こそが世界だ、と思う人もいるかもしれない。 それを否定する方法はない。だが、その考えに対する風刺が ヴォネガットの小説「チャンピオンたちの朝食」に書いてあるので、読んでみてほしい。 独我論を風刺した最も適切な書物である。 そうすると、我々が認識している視覚のとらえている物体は、存在していると思うだろうか。 いや、存在していないといっているのが、またも登場した空海の「秘密曼荼羅十住心論」である。 認識の向こうは空虚であるといっている。これは空海の説であり、 インドや中国の仏僧がそういってるのかどうかは知らない。 で、ぼくがどのように世界ができていると思っているのかというと、カントの「純粋理性批判」にあるように、 認識できない物自体が存在すると思っているのである。 ええええ、あそこにある物体は普通に存在するんじゃないのかよ、と思うかもしれないが、 その保障はないのである。これがドイツ大陸哲学であり、世界は、認識できない物自体に、 人間の認識がのっかってできていると考えているのである。 では、ぼくたちが見ている物体は何か。物自体の表象である。
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126 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:14:00.69 ID:1RoLQ5h0 - 物自体については、ドイツでも喧々諤々の議論をもよおした。
十八世紀に出版されたカントの「純粋理性批判」は、物自体は認識できない、としていたけれど、 それをうけてさまざまな哲学者がカントを反駁しようとした。 ヘーゲルは、物自体を即自存在と置き換え、世界を説明しようとした。 ショーペンハウエルは、物自体を意志だとして、世界を説明しようとした。 フッサールは、物自体に対応する本質直観があるとして、説明しようとした。 だが、すべてまちがっている。三人ともまちがえているとぼくは考える。 このように、カントの物自体は百年以上たっても世界中で理解されなかった。 だが、現在の哲学で最も信憑性の高い世界の構造は、物自体があり、 それを認識することはできないが、我々の認識が物自体の表象をとらえているという見方である。 なお、ややこしいが、「物自体」として世界を説明しようとしたのはカントだが、 「物自体の表象」として世界を説明しようとしたのは、フッサールである。
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128 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:16:28.55 ID:1RoLQ5h0 - 7、我思うゆえに我あり
意識が世界を認識していることについて述べた。それについて論じた有名な哲学者はデカルトである。 「我思うゆえに我あり」と「方法序説」に書いてある。100ページちょっとの短い本なので読んでみてほしい。 で、ぼくが意識しているからぼくは存在するんだ、という理論である「我思うゆえに我あり」だが、 当然、これに反論した哲学者もいる。どうぞ、「我思うゆえに我あり」に反論して、論破してもらいたい。できるだろうか。 では、「我思うゆえに我あり」を論破した哲学者を紹介しよう。スピノザである。 「我思う」という「我」を、完全に正しくぼくらは認識することができない。 ぼくらは自分で自分のことはわかるけど、ぼくらがわかっている自分のことは完全じゃない。 ぼくらは完全に自分のことを知ってはいない。だから、我思う我は、我を完全には知らないため、 我はあやふやなものであり、我思うからといって我あるとは限らない。 我は我とはちょっとちがうものかもしれない。我思うゆえに我とちょっとちがうものがある。 これでは、デカルトの「我思うゆえに我あり」も成立しない。これで「我思うゆえに我あり」を論破したぞ。 中には、我思うゆえに世界ありと思う人もいるかもしれない。その時、考えてほしいのが、 眠っている時間である。誰もが眠ると思う。眠ってる時に世界は存在するのか。 自分の見ていないところに世界はちゃんと存在しているのだろうか。 もちろん、これは存在の根幹が物自体であるというカントの哲学によって否定されるのだが、 中にはこう考えたものもいた。 阿頼耶識である。西暦四世紀頃にインドで成立した仏典「解深密経」(けじんみっきょう)に、 阿頼耶識という概念が登場する。これは、五感は意識以外の第七感、あるいは第八感が存在し、 この無意識は、眠っている時も、また自分の見えていない世界すべてを映し出す識であると考えられた。 そう阿頼耶識を想定しない独我論には理論のほころびが生じるのだ。 無意識が最初に登場したのは、インド哲学であると思われるが、最初の出典は定かではない。 西洋では、つまり、ヨーロッパでは、ライプニッツが東洋哲学を紹介した時に、初めて無意識を紹介したとされる。 ユングは、西洋での無意識の紹介をシェリングであるとしたがまちがっている。 そんなわけで、無意識が存在することは大昔から知られていた。 無意識については二十世紀、フロイトやラカンによって盛んに論じられたが、誤謬が多い。 フロイトは、父殺しを物語の典型としたが、この説は二十一世紀になっても盛んに論じられていたが、 ぼくが千冊の小説を読んで統計をとったところ、父殺しの物語は千作中二作だという統計を得た。 父を神や父性ととらえても、父殺しの物語は全体の2%程度しかない。
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129 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:19:57.05 ID:1RoLQ5h0 - 8、神を意地でも肯定したい人たち
神について語ることにしよう。多神教の神々はアミニズムとの結びつきが強く、世界全土に見られる。 多神教はいろいろな教えを雑多に取り込めるので我が国日本では評判がよい。 絶対に神は唯一でなければならないとは日本人は考えていないし、 キリスト教徒も一神教と二元論で迷うことがあるらしい。ゾロアスター教に見られる、善の神と悪の神が争い、 二元論で世界が構成されているという考え方だ。キリスト教徒が一神教と二元論で迷うなら、 イスラム教徒もおそらく本音では迷うのだろう。 一神教の神の定義を明確に定めたのはイスラム教の開祖ムハンマドだが、 その定義は、「神は全知全能であり、万物の創造主であり、天地の支配者であり、寛大で慈悲深い」だ。 偶然、一神教の神を信じている日本人にコーランを読んでもらう場面に立ち会ったのだが、 ぼくは神を信じている人なら絶対にコーランを読んだら喜ぶと思っていた。 だが、結果はちがった。その日本人は神を信じるのを辞めてしまったのだ。 なぜなら、「神は救ってくれてないじゃん」ということである。 やはり、実際の信仰者たちには、現実に生きる中で神が自分にどう関わるかが重要なのである。 机上の空論では信仰しつづけたりはしない。実際に神が救ってくれないかぎり、一神教の神を信じたりしないのである。 一神教について簡単に歴史をまとめると、最初の一神教はエジプトの紀元前十四世紀のイクナートンが創始したアテン神であると思われる。 それからしばらくして、ユダヤ民族がヤハウェの信仰を始め、一世紀にイエスが生まれるまでの間に、 神の呼称が神々から神に変わった。一神教が成立する。 紀元前四世紀に中国で成立した「荘子」外篇に、 キリスト教成立以前、仏教の中国伝来以前に「造物主」ということばが見られ、一神教の萌芽があったことがうかがえる。 一世紀の間に、インドでおそらくキリスト教と関係なく、「ヴァガバット・ギータ−」が作られる。 クリシュナを世界すべてと同一視する汎神論である。 六世紀にムハンマドがイスラム教を創始する。 十七世紀になり、スピノザが「神学・政治論」を書いてキリスト教会の盲信を批判する。 そして、スピノザは破門されてしまう。名著なので、ぜひ、「神学・政治論」を読んでほしい。 この本が成立した原因には、キリスト教を信じない日本人も幸せに暮らしていたことを、 江戸時代のオランダ人であるスピノザが指摘してできたものである。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
130 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:20:09.53 ID:1RoLQ5h0 - さらに、十九世紀では、ニーチェが「神は死んだ」といいだす。ニーチェは日本哲学界ではいちばん人気の大人気者なので、
詳しくは書かないが、どうか主著「ツァラトゥストラはこう言った」だけでなく、 「善悪の彼岸」や「道徳の系譜」、「キリスト教は邪教です」も読んでほしい。 道徳を決定し管理するキリスト教会の権力に反抗したものであり、いつの時代の権力者に対しても通用する反抗の書である。 ちなみに、それでも、神を信じたい人たちはプラグマティズムというものを考えだした。 ウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」が代表作だが、科学を肯定し、なおかつ神を肯定する思想である。 辞書的な解説には、「現実主義」などと書いてあるが、要は、キリスト教と科学と妥協した思想で生きるというものである。 しかし、現代人の多くは、神は救ってくれないとして、プラグマティズムすらよしとはしない。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
131 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:22:25.30 ID:1RoLQ5h0 - 9、性善説と性悪説
人間は本来、善であるのか。人間は本来、悪であるのか。これを性善説と性悪説といいます。 中国の諸子百家の孟子と荀子の書物に出てくることです。 みなさんはどちらだと思いますか? ぼくは若い頃は性善説を信じていましたが、歳をとってからは、やはり、 法律や警察で取り締まらないと悪いことをする、嫌なことをする人たちが大勢いるため、 性悪説に変わりつつあります。 そこで、聞いてみたいことがあります。 性善説を信じる人は、生まれながらに善であった人間がなぜ、いかにして悪に手を染めると思いますか? 性悪説を信じる人にも聞いてみたいです。世の中に優しい人はいます。 生まれながらに悪であった人間がなぜ、いかにして善なる行為を行うようになるのでしょうか。 何が原因なのでしょう。もちろん、現在解明されてません。 人間の知能の五割は遺伝に由来するといわれてますが、残り五割は教育や環境に由来します。 おそらく、本当は、人間には善なる心も悪なる心も両方合わせ持って生まれてくるおでしょう。 この人間を包み込む環境の中で、世界のどこに人を善たらしめる要素があるのか。 世界のどこに人を悪たらしめる要素があるのか。ぼくはとても気になります。 ピンカーの「暴力の人類史」によると、人類の社会で暴力は時代が新しくなるごとに減っているそうです。 かつて、十八世紀までのヨーロッパの君主は、八人に一人は殺されました。 王様に生まれたからといって幸せになれるわけではないのです。 いったい世界の何が原因で人間を善になさしめたり、悪になさしめたりするのでしょうか。 ちょっと考えてみてほしいと思います。 神や天使や悪魔が原因で人間が善になったり悪になったりするというのは いくらなんでも哲学者のとるべき態度ではありません。しかし、 この世界のどこかにそういう要素が存在しているのは確かなはずです。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
133 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:27:12.03 ID:1RoLQ5h0 - 10、宗教と記号
人の脳は神経回路でできており、人の心は絶対に割り切れるものであると考えられる。 人の心は無限などというのは妄説であるのがわかる。これは、認知されるものが必ず記号の形をとることを示している。 すなわち、視覚は錐体細胞によって、聴覚は耳管の中の毛の揺れる具合から、 嗅覚は鼻の感覚器から、味覚は味蕾から、触覚は肌の各種感覚器から、 意識は前頭葉を中心としたミラーニューロンから発現する。 人の心は記号でできていると考えられる。 記号は、人の心にわかりやすく訴えかける効果があり、記号化されたものは大衆の人気を集めやすい。 これを哲学として論じたのはボードリヤールの「消費社会の神話と構造」であるが、 そこでは記号が経済によって消費されていくこと、記号の体系化がされているということの指摘がある、 この指摘はポストモダン思想の中で曲解されたまま生き残り、 東浩紀の「動物化するポストモダン」でデータベース消費としてまとめられた。 人が消費するものは記号であり、それはデータベースとして保存されるという理論である。 フロイトやラカンなどの精神分析が誤謬に陥ったのは、人の心を形成する記号の数を数十個くらいに想定していて、 現実には人の心は数万を超える数の記号からなることを理解していなかったためだと思われる。 その証拠に、おおよそ、たいていの言語をネイティヴに話す人が暗記している単語の数は数万個である。 例えば、日本語で常用漢字は千個ほどあり、平仮名片仮名は数百である。 これらを組み合わせた単語、熟語を数万個憶えて、人は言語を話している。 新しく外国語を覚えるには、千個ほどの単語を覚えることから始まるが、 ネイティヴに話すとなると変化形が多く、数万個の単語や熟語を覚えなければならないことになると思われる。 そして、記号とは人の心として認知される時に発現するものであるが、 記号の元となる事象は心の外にあり、その商品の数となると何億種類におよぶ。 これをすべて暗記している人はいない。データベースを調べて、心の中に転記して扱うのである。 それはまるで、コンピュータがハードディスクから情報をレジストリに移動させて作業するようなものである、 そして、何億個の商品が消費されていくのである。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
134 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:27:29.84 ID:1RoLQ5h0 - ここで重要なのは、「記号は生々流転するものであり、それを固定したものとしてとらえてしまうと、
宗教や精神分析のような誤謬に陥ってしまう」ということである。 精神分析が誤謬に陥った理由は、数万個に及ぶ人の概念の数を数十個に まとめあげようとしていたことから明らかであるが、宗教の場合はどうか。 宗教と記号の関係を論じるのが今回の主題である。 宗教は、全知全能を記号とする一神教や、無我を記号とする仏教などに代表される。 記号は人に認識されやすく、注意を引くので、それに対して狂信が起こる。全知全能や無我に対する狂信が宗教である。 例えば、偶像崇拝を禁止とするイスラム教において、「記号が存在せずにイスラム教が成立するのか」という 命題を立ててみたことがある。すると、イスラム教徒も、イスラム教以外に日常生活全般という記号と接するので、 必ずしも、イスラム教徒が記号を否定して暮らしていいるわけではないと指摘された。 この指摘は正しいだろう。イスラム教が、神を全知全能で、万物の創造主だと規定していても、 イスラム教徒のとりまくすべてを宗教に帰すほどイスラム教徒も愚かではあるまい。 日常生活全般をとらえる時には近代科学をもとに思考しているはずである。 歴史上、最も人気のあった記号は、全知全能か無我であろう。 そういう意味では、宗教は非常に集客力のよい記号をもったものだといえる。 我々現代人は、もはや、宗教は記号として消費する時代になっているのである。 宗教にもある程度の価値はあるであろう。しかし、それは日常生活における道徳的世界秩序としてではなく、 ゲームの中の記号として消費するので充分だと考える。 ゲームや漫画などのサブカルチャーに充分、道徳の規範として示される例示はされるのである。 宗教というメインカルチャーを道徳の規範とする必要はないと思う。 すでに、伝統宗教の教える道徳規範より、サブカルチャーの教える道徳規範のが大きなものであると思われる。 もちろん、宗教の経典と、ゲームや漫画のどちらか一方を捨ててよいというものではないが。 くり返すが、もはや、宗教は消費社会の記号として消費すべきものと成っている。 その超越的特権性はもはや宗教に残しては悪であるとすらいえるものである。 思う存分、宗教を記号として解体する作業を行うべきである。 それこそがより良き現代思想であり、現代人の生きる様というものである。 ボードリヤールの記号の消費は、否定的にとらえられたものであるが、記号論はひとつの思想体系になっている。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
137 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:32:31.10 ID:1RoLQ5h0 - 11、日本の哲学を京都学派から見る
よく「日本に哲学者はいない」などという妄言をいう人がいるが、それはまちがいである。 確かに数多くの哲学史研究家はいるものの、自分で考えるという類いの哲学者はいるのかというと極端に数が少なくなる。 結論からいうと、日本の思想というと代表的なのは田辺元の「種の論理」と三島由紀夫の「葉隠入門」である。 日本の思想はもともと神道を起源として、これは縄文時代のアミニズムから端を発するものであるが、具体的な教義はない。 日本に文字が伝わったのとほぼ同時期に仏教が取り入れられており、日本の思想は神仏習合によるものとして成り立っていた。 これに儒教、道教などが加わり、日本の思想となっていたのである。 そのため、日本独自の思想を取り出すというのは極めて難しく、どうしても、中国、インドの思想の影響を受けざるを得ない。 さらに、戦国江戸の頃より、西洋の思想が流入してきて、蘭学を中心にキリスト教も科学も伝えられてはいた。 それを萌芽に、明治維新の時に欧米への留学によって西洋思想が一気に導入されたのであるが、 日本はわずかひと世代で欧米の哲学者に肩を並べるに至ったといわれている。 その代表とされるのが田辺元の「種の論理」と西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」である。 この二つの思想を中心とする哲学思想を京都学派という。 「種の論理」も「絶対矛盾的自己同一」も、どちらもよく読むと西洋哲学を発展させた日本独自の哲学で、 ナザレのイエスに言及せずに西洋神学を語ろうとする独創的哲学である。 その内容は実際に読んでもらうしかないが、かなり難解である。極めて神秘的なので楽しみに読んでくれるとうれしい。 一般的には西田幾多郎が田辺元の師とされるが、 主論文である「絶対矛盾的自己同一」を西田幾多郎が書いたのは1939年であり、 田辺元の「種の論理」の主論文「社会存在の論理」が書かれた1935年より遅い。 すなわち、田辺元の「社会存在の論理」こそが日本独自の思想であり、田辺元は西田幾多郎より先に独自の哲学を築いたといえる。
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138 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:33:01.81 ID:1RoLQ5h0 - 田辺元の「種の論理」は、これを評して「ヘーゲルの誤読」というものもいたが、
ぼくが知る限りカントの「判断力批判」に発想の萌芽が見られる。 確かに「種の論理」は、ヘーゲルの「大論理学」の発想と似かよった発想で書かれているが、 それについては解説が難しく、ヘーゲルは正命題テーゼと反命題アンチテーゼから合命題ジンテーゼが生まれるという論理を、 ヘーゲルは実際にはいってないということは確かにあるので、これをヘーゲルの論理といっていいのか難しいのである。 なお、ヘーゲルは、正反合のことばを使ってはいないが、 これはヘーゲルの哲学を解説したドイツ語の教科書に出てくることばらしい。 なお、フィヒテというドイツの哲学者の文献には正反合の単語が出てくるらしい。 まあ、どちらにせよ、起源はカントの「判断力批判」である。 田辺元の「種の論理」が何をいっているのかというと、具体的には、 社会正義的行動と非合理的行動は相反するが、これはいずれも特殊的状況によって発生するものであり、 それを融合した普遍的社会原理が生まれればより人類は絶対者に近づくという論理である。 ぼくはこの非合理的行動を「自由」を指すことばだと読みとって、 つまり、自由と正義は相反するがそれが融合されると神に近づく、という哲学だと読みとった。 こんなことを主張している哲学者は欧米でも田辺元の前にはいないと思う。少なくてもぼくは知らない。 田辺元ら京都学派は、第二次大戦の日本の軍国主義の理論的支柱になったという俗説がまかり通っているが、 どうにも疑わしい。その根拠となる田辺元の「歴史的現実」を読んだが、 決して天皇賛美でも軍国主義賛美でもない。不見識ながらぼくが思うに、 田辺元は哲学の学究的人物であり、あまり政治には関心がなかったようである。 軍国主義を賛美したという「歴史的現実」では軍国主義を賛美していないし、 軍国主義を反省したという「懺悔道としての哲学」では別に懺悔なんてしていない。 敗戦国の代表的な哲学者だったがゆえに、田辺元は叩きつぶされてしまったというのが真相ではなかろうか。 日本独自の思想として挙げた田辺元の「種の論理」と三島由紀夫の「葉隠入門」であるが、 三島由紀夫の「葉隠入門」は簡単にいうと、「武士は多少高慢で死狂うのがよい」と書いてある書である。 日本独自の思想というと、この二つくらいしか本当に見当たらないが、 日本独自の思想が皆無だなどと主張する無知蒙昧な輩には本当に腹が立つのである。
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141 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:37:13.53 ID:1RoLQ5h0 - 12、アプリオリについての考察
アプリオリということばは哲学をやる人は一度くらい聞いたことがあるだろう。 カントの「純粋理性批判」に出てくることばで、思考の帰結はアプリオリ(先験的)でなければならないという主張である。 これがどうにもぼくには疑問なのである。すごく引っかかるのだ。 ネットの掲示板では、カントのアプリオリという思想を反駁した哲学者も当然いるといわれたが、 探してもさっぱり見つからないので、それを知っている人は誰のどういう著書に書いてあるのか教えてほしい。 本が見つからないので素人のぼくの考察を書くことにしたが許してほしい。 そもそも、アプリオリという単語は、ラテン語であり、 古代ギリシャのエウクレイデスの「ユークリッド原論」に最初の記述が見られる。 数学書の記述であり、カントは哲学は数学のように先験的でなければならないと主張したことになる。 数学が先験的かどうかは議論があるだろう、明確な答えはいまだに見えない。 この宇宙を記述するのに、人類は数学を使って物理学を計算して、諸科学に基づく文明を築いている。 数学は文明の基礎であるから、哲学も数学のように先験的であるべきとカントが考えたのは当然なのかもしれない。 しかし、これは簡単に容認するわけにはいかない。数学が、宇宙の基本原理を反映したものなのか、 それとも、人間の認識の原理を反映したものなのかはまだわかっていないのだ。 当然、数学は物自体を記述するものではありえない。すると、 人類の脳の外部に存在する物自体の表象に基づいたものなのか、 それとも人類の脳の内部の存在に基づいたものなのかはっきりしない。 人間の思考が先験的であるか後天的であるかはプラトンの「メノン」に記述が見られる。 プラトンは思考を後天的なものとして、先験的な思考を否定する。
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142 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:37:53.83 ID:1RoLQ5h0 - では、カントの「純粋理性批判」をどう読んだらよいのか。これがまた難しいのである。
二律背反がアプリオリ(先験的)に求められるわけがないのである。 カントの主張する二律背反の論理。宇宙は無限であるか有限であるか。 宇宙には単純な構成要素があるかないか。自由意志はあるかないか。 宇宙は最初の一点から始まったかどうか。それらはアプリオリ(先験的)には得られない。 それらの論理は深い熟慮の果てに後天的に得られるものなのである。 だから、カントの「哲学はアプリオリ(先験的)に答えが得られなければならない」という主張は一見おかしいことになる。 まちがっていると一度はぼくが考えたのも無理はないと考えられるではないだろうか。 だが、よくよく考えると、それがまた考えが逆転してくるのである。 カントの主張する二律背反の論理。宇宙は無限であるか有限であるか。 宇宙には単純な構成要素があるかないか。自由意志はあるかないか。宇宙は最初の一点から始まったかどうか。 これらは、現在は未解明な謎であるが、おそらく、明確な答えがあるのである。 宇宙はどちらかで成り立っている。二律背反、すなわち、 矛盾した二つの論理がどちらも成立するということはないはずなのである。 決して辿りつくことはないかもしれないが、人類が遠い未来にこれらの問いの答えに辿りつく可能性はある。 その時、人類は、先験的とはいわないまでも、子供でもわかる常識としてこれらの問いに答えている可能性はある。 カントはそういう遠い未来の文明を想定していたのかもしれない。それはアプリオリ(先験的)というものとは異なるが、 いち足すいちがにになるように、人類のたいていの人に常識として認識されている可能性がある。 例えば、二律背反の第三の問い、自由意志は存在するか否か。 これは現代科学では、人類には自由意志が存在しないとして答えがでそうなのである。 そうすると、この問いは、深い熟慮の果てに辿りつく答えではなくなり、 誰にも明白な常識として認識されることになる。それは厳密な意味でのアプリオリ(先験的)ではないものの、 カントの目指した哲学の形が成立するのかもしれない。 アプリオリ(先験的)にわかるとは、神経構造によって本質直観されることであるが、 それは「純粋理性批判」の論理には成り立たないまでも、カントが主張した理想はなんとなく理解できないこともないのである。
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145 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:44:10.56 ID:1RoLQ5h0 - 13、イデア論の哲学史
西洋哲学をやるのに避けて通れないのがプラトンのイデア論である。もともとは、 「国家」の第五巻から第七巻にかけて書かれた存在論が起源で、それは「洞窟の比喩」として語られる。 「洞窟の比喩」とは、難しくて容易に要約できないが、洞窟の中では実体は見えず、 灯りに照らされた影が見えるだけである。それがこの世界の存在の構造ではないかという仮説。 つまり、この世界にはどこかに真の実体の世界であるイデア界が存在していて、 我々の現実はその影にすぎないのではないかという仮説である。証拠はない。 プラトンの対話篇に「国家」より後に書かれた「パルメニデス」というものがあり、 これは文庫化されてないので入手困難だが、思い切って大金を出して古本で買ってみた。 「パルメニデス」の副題は「イデアについて」であり、読んで重要なことが書いてあったら後でこの箇所を書き直したいと思う。 まだ読んでないので、それについてぼくがまったく知らないでイデア論について語るのは許してほしい。 このイデア論は、可能性として古代思想としてはありえたかもしれないが、 原子論や進化論などが発達した現代では信用される仮説ではない。 進化しつづけた動物のそれぞれに対応したイデアが存在するとはとても考えられないのである。 この失敗した仮説であるイデア論は西洋哲学史で極めて大きな影響力を持ちつづけた。 これから、イデア論を論じた哲学者の代表者を述べて、イデア論の哲学史の概略としたい。
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146 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:45:02.34 ID:1RoLQ5h0 - まず、プラトンの生前に直接、教えを受けていたアリストテレスはなんといっているかというと、
「形而上学」にある。引用する。 ――ある何か離れてそれ自体で存在していて、なんらかの感覚的なものに属しないようなものが、果たして存在するのかどうか。 アリストテレスは「形而上学」において、資料ヒュレーと形相エイドスを対比して説明するが、 形相エイドスはイデアのような概念を必ずしもそのまま示してはいない。 アリストテレスは、「形而上学」で「最後は善のイデアに至る」と書いていて、イデア論を結局は肯定している。 別の章で書いたが、このアリストテレスの「形而上学」がイスラム社会で最も信頼できる世界の構造と考えられていて、 十二世紀のヨーロッパのルネサンスまでの間はアリストテレスの「形而上学」が信じられていた。 だから、イデア論はこの間、ずっと可能性として信じられていた。 十三世紀前後のヨーロッパにおけるイデア論の議論を書いた書物は山内志朗の「普遍論争」である。 日本の哲学者山内志朗はヨーロッパの図書館に行き、直接、中世ヨーロッパのイデア論の論争を、 文献を原語で読んで調べたそうである。イデアは存在するとした哲学者とイデアは存在しないとした哲学者が 言い争っていたとある。どうも推察するに、山内志朗は西洋哲学、さらには現代哲学がイデア論という幻想を 本当に根拠にしているのが信じられなかったようである。それでそれは本当なのかどうか確かめるために ヨーロッパの図書館で中世の文献を調べたのである。その結果、中世ヨーロッパの哲学者の中には 本気でイデア論を信じている人が大勢いたという結果が得られた。 やがて、十六世紀になり近代哲学が始まる。コペルニクスが「天体の回転について」を発表して、近代科学思想が始まる。 哲学も近代化する。デカルトやスピノザやライプニッツは手放しでイデア論を肯定することはなかったようであるが、 有名な哲学者でイデア論を肯定する人は近代哲学が始まってからもどんどん出てくる。 十九世紀のヘーゲルである。「精神現象学」は、人々の掟と神々の掟に分けて論証され、 どうも、イデアという単語は使わないものの、ヘーゲルの「精神現象学」はイデア論を肯定する論理で書かれているようなのである。 神々の掟は絶対に正しいとされ、おそらくイデアを意識している。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
147 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:45:36.32 ID:1RoLQ5h0 - ヘーゲルは、カントの二律背反を解釈するために出てきた哲学者であるから、
二つの矛盾する論理が融合されて別の論理になるという思考を辿る。 「精神現象学」は、人々の精神とイデアの精神が融合して、絶対知に至るとなって終わる。 絶対知である。そんなことはありえない。ヘーゲルですら完全な真理には到達していないだろう。 だから、ヘーゲルの哲学で絶対知に至るというのはもう完全にファンタジーである。 このファンタジーが十九世紀の哲学としてドイツで圧倒的に支持されてしまう。この頃から西洋哲学はおかしくなっていく。 二十世紀になると、デリダが「声と現象」を発表する。これもイデア論を扱ったファンタジーである。 イデアに対して現実存在が反復することによって歴史がつづき、その差異によって歴史の現象が異なるとしている。 ファンタジーの設定としては面白いかもしれないが、イデアが存在する証拠がひとつもないので仮説である。 ドゥルーズの「差異と反復」は、1967年に発表されたデリダの「声と現象」のパクリであり、 1968年に書かれた博士論文である。同じようなことをいっているが、 冗長でしかももっとくだらない論理展開がされてるので読まなくてもいいだろう。 というように、今では信用する人のほとんどいないイデア論であるが、哲学にはどんどん出てくる。 哲学の凋落の原因でもあるだろう。ぼくはイデア論を支持しないし、 そんなものを真剣に探究して哲学を研鑽したら現代哲学に未来はないと思っている。 しかし、まだ見過ごせない問題がある。これはぼくがそう考えているわけではないが、 そう考える人もいるということで、プラトンの「洞窟の比喩」が重要であると考える人々がまだいるのである。 それは、カントの物自体がプラトンのイデアと同じなのではないかという解釈である。 カントの物自体は、存在と認識の様式において想定される仮説であるが、 実体の真の姿であるかもしれないが、プラトンがいった「善のイデア」とかにはぜんぜん当てはまらないので、 別概念だとぼくは考えるが、同一視して西洋哲学は伝統的に正しいと主張する人々がいる。 これがイデア論の哲学史である。プラトンの「パルメニデス」を読み終わったら書きかえるかもしれないけど、 これでひとまずこの章を終わる。
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148 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:46:02.84 ID:1RoLQ5h0 - 追記。
プラトンの「パルメニデス」を読み終わった。最初は読み終えたら部分的に書きかえようとしていたが、 読み終わったところ、とても部分的な修正では間に合わないので、追記の形をとることにした。 「美のイデア」とか「善のイデア」とか書いてあるのは「パルメニデス」であって、「饗宴」や「国家」ではない。 「洞窟の比喩」とかこれに書かれていることに比べればどうでもいい。これはイデアを知るには必読である。 カントも、田辺元も、ドゥルーズの「差異と反復」もこれを参考に書かれているのである。 これは、プラトンがパルメニデスの教えを暗記している人に伝え聞いたものを書き写したものである。 パルメニデスは天才だ。カントですら、パルメニデスの物まねにすぎない。 イデアという考えはパルメニデスによって考えだされたものだ。西洋哲学はプラトンの注釈にすぎないのは本当だった。 カントですら、プラトンへの注釈だった。それは「パルメニデス」を読まなければわからないだろう。天才だ。これは天才の書だ。 何をいっているかというと、極めて難解だが、こんな感じである。 部分は全体ではありえず、全体は部分でありえない。多は一ではありえず、一は多ではありえない。 我々の現実は多様であり、つまり多である。ということは、多である我々の現実は一ではありえず、この世界は一である。 よって、多である我々の現実はこの世界には存在しない。 ぜひ日本の出版界にはプラトンの「パルメニデス」を文庫で安価に手に入れられるようにしてほしい。 おそらく、プラトンの「パルメニデス」が霊魂、天国、神の国の存在証明である。
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151 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:52:55.75 ID:1RoLQ5h0 - 14、日本現代思想の幻想たち
ぼくは日本現代思想についてはかなりの素人で、もちろん、そんなものを簡単にまとめることなどできないのであるが、 いちおうある程度のぼくの現代思想史の漠然とした印象があるので語っておこうと思う。 とても学術的なものではないし、漠然とした印象であり思い込みでしかないのだが、 それでも、日本現代思想をやりたいという人はいるだろうし、自分の生きた時代の一つの側面というものを居酒屋談義程度に読んでもらえれば幸いだ。 仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想」(2006)、佐々木敦「ニッポンの思想」(2009)、 石田英敬「現代思想の教科書」(2010)などに比べると参考文献が少ないかもしれないが、 くだらないポストモダン思想についての言及はできるだけ避けた。 仲正昌樹「現代思想の名著30」(2017)で「構造と力」が日本の現代思想にあげられてるのだから、 ぼくの選択でもいいんじゃないだろうか。 日本の戦後の現代思想についてぼくなりにまとめてみることにしたものであり、 学術的なものではない。適当にまとめたものである。 1959年に三島由紀夫「不道徳教育講座」が出る。まあ、不道徳なことについて真面目に語ってみようというもので、 以下に書かれたものの先駆的な代表作ということになる。とりあえずは読んでもらわないと始まらない。 で、1963年に寺山修司「家出のすすめ」が出る。 「東京へ行こう。行けば行ったでなんとかなるさ」という内容のもので、東京礼賛のすすめである。 寺山修司が家出をしたのか知らないが、寺山修司は19歳には早稲田に合格して青森から東京へ出てきている。 だいたい人生論なんてひと世代立たなければ結果はわからないが、 ぼくの知る限り、東京へ家出した若者のほとんどはなんとかなったりせず、ひどい目にあった。 幸せにはならなかった。90年代女子高生文化の結果としてそれははっきりしている。 何よりムカつくのが、東京もんはそういう上京してくる若者をバカにしていることである。 東京に来れば幸せになれるなら、最初から東京にいる自分たちのが上だし詳しいというわけである。 しかしこの問題は難しく、2017年現在でも、都市集約型経済が望ましいとして東京に人が集まっている。 1967年に寺山修司「書を捨てよ、町へ出よう」が出る。娼婦とマザコンを推奨した書なのだが、 書を捨てて町へ出て何をしているのかというと、競馬とパチンコなんだから本当にくだらない。 ただ、寺山修司は現代詩に造形が深く、本自体には不思議なさわやかさがある。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
152 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:53:28.73 ID:1RoLQ5h0 - 時代がちょっと前後するが、1965年に澁澤龍彦「快楽主義の哲学」が出る。
澁澤はサディズムのサドや、バタイユの「エロティズム」を訳した学者だから、いかがわしい内容も抑えており、 性の解放を訴えている書である。乱交を勧めている書。なまじ、澁澤龍彦という博覧強記の人に書かれているので、 非常に参考になる。真面目な文学青年も不良青年に出し抜かれないように読んでおこう。 乱交パーティーなどは大多数にとって探してもいつまでも見つからないものかもしれないが、実在はしていたようだ。 1982年に林真理子「ルンルンを買っておうちに帰ろう」が出る。 題名が寺山修司の「書を捨てよう、町へ出よう」のパロディだが、内容はもっと誠実なものである。 バブル経済のもとで流行に踊らされる大衆の中で、女性の本音を大事にして時に大胆に時に謙虚に生きる様を書いたエッセイである。 1983年には浅田彰「構造と力」が出る。日本でのポストモダンブームの先駆けとなった本で、 「知の欺瞞」以後の今読んでもなかなか面白い。印象深いのは、 「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」のが当時の学生の美意識だったことである。 1984年には浅田彰「逃走論」が出る。都会的遊牧民族として生きる思想を説いた書である。 ノマド的生き方という。賃貸アパートを移り住み、非正規雇用で暮らそうという書。 さらには、大学にいつまでも残り、親の仕送りで死ぬまで研究生活がつづけられれば儲けものだという書でもある。 結果として、この思想の実行者はほとんどが貧乏になり没落してしまった。 ノマドといわれた人たちは90年代には15万人いたと新聞に書いてあったが、ほとんどが没落していたと書いてあった。 おそらく、小泉改革の非正規雇用拡大の理論的支柱である。 1993年に宮台真司「制服少女たちの選択」が出る。 宮台真司は1985年(26歳)から1996年(37歳)までテレホンクラブなどでエッチな行為をフィールドワークしていた社会学者である。 その記録のまとめである。女子高生が売春をしているとして大いに話題になった。 宮台真司は少女たちは傷つかないと主張していたが、文庫化された2006年の増補では、 十年後の調査では、売春していた少女たちの多くは傷ついていたということが報告されている。 90年代女子高生ブームを語る上で欠かせない必読書である。おそらく著者の趣味なんだろうが、 茶髪ギャルより清楚系進学校の普通の子が強調されてるのが印象深い。 1995年には漫画で、小林よしのり「戦争論」が出る。日本保守思想の一大ブームを作り出したが、 ちょっとまちがった右翼思想をもたらしてもいる。しかし、2015年に念願の安保法案が成立している。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
153 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:54:22.43 ID:1RoLQ5h0 - 1999年には、飯島愛「プラトニックセックス」が出る。不良少女の自伝で、素晴らしい女性の心理描写がされている。
不良のバイブル。村上春樹の「ノルウェイの森」を読むより、これを読んだ方がいいだろう。 だが、まちがっているのは、月300万円くらいのお金を一回くらいなら二十代の正社員の男なら出せるんだよ。 ぼくは、飯島愛の「プラトニックセックス」を読んで、ニーチェの奴隷道徳と野獣道徳をアウフヘーベンするべきだと思うんですが。 ちなみに、飯島愛の「プラトニックセックス」は美女の書いた(口述筆記だが)本だが、 ブサイクはいったいどうしたらいいのかについては、芥川賞作家のうちでいちばんブスな女性作家に選ばれた笙野頼子さんの 小説なんかを読むといいかもしれない。「説教師カニバットと百人の危ない美女」「金毘羅」「だいにっほん、おんたこめいわく史」あたりがいいだろう。 飯島愛の「プラトニックセックス」は非常に読みやすいが、笙野頼子はちょっと難解かもしれない。がんばって読んでくれ。 あとは、真面目女子によって書かれた自伝で良いものが出るとうれしい。 2008年には高橋昌一郎「理性の限界」が出る。哲学的対話篇であり、哲学入門書には最も良いだろう。 誰か我はという人はこういう現代的対話篇をもっとたくさん書いて読ませてほしい。 以上で、本の紹介は終わりである。どれも面白い本なのでぜひ一読願いたい。 が、失敗した思想も多々あるので、過去の失敗を省りみず、 同じ過ちをくり返してしまうのは避けてほしい。乱交するのはいい。だが、売春などしても男が欲望で暴れ脅してくるだけである。 遊牧民的生き方をするより定住して定職についた方がいい。人生で勝ってるのは圧倒的に正社員であり、 無職や非正規は不幸なことが多い。競馬、パチンコに入れ込むなど論外である。 2008年より後はネットの時代になり、ぼくは代表的社会論は知らない。 マイルドヤンキー対オタクの戦いはオタクが勝利したと思っているが、 ただ、半グレという暴力的な若者が「おれたちもいい飯食っていい女抱きたいじゃん」と 芸能界やアダルトビデオ業界に攻勢をかけていたようである。 まあ、これらの人生論はほとんど失敗して、その結果、文系学問なんか役に立たないからと文系再編されて、 理系技術者が重視されるようになった。 おわりです。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
154 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 08:55:46.58 ID:1RoLQ5h0 - >>144
ほとんどの人が哲学なんて知らないみたいなので、ぼくの知る限りの哲学の紹介。
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- 【科学教育】なぜ科学教育において「哲学」が重要になってくるのか
163 :名無しのひみつ[]:2017/12/01(金) 14:14:21.17 ID:1RoLQ5h0 - >>162
まったく、きみのような頭の悪いものには哲学の深淵はわかるまい。 あきれたねえ。 きみのような低能が科学ニュース+板にいるのは何かのまちがいだろう。
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