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独り言a.k.a元祖御用一般人 ◆rI5oCip.d6
昔スターで後年没落した人物だけを語ろう 27ファイナル

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昔スターで後年没落した人物だけを語ろう 27ファイナル
317 :独り言a.k.a元祖御用一般人 ◆rI5oCip.d6 [sage]:2018/12/03(月) 23:35:28.58 ID:yPeTNMdR
>>304
黒沢さんの死去をこのスレでさっき初めて知った。
自分も批判はあるけど、ただ黒沢さんをそこまで悪く言うのは気の毒。

元々は日活にいた黒沢さんを岡田茂が「ウチの東映の東京・京都の連中で撮るとカネが
掛かる」「ロマンポルノの日活の奴なら低予算も慣れたもんだろう」と東映に引っ張ったのが
東映セントラル・アーツの始まり。
そこでTVの制作=石原プロ・スタジオ=日活の『大都会パート2』の俳優(優作)・監
督(元は日活出身の村川透)・スタッフ(仙元誠三など)を黒沢さんが「この俳優・スタ
ッフのコンビネーションをそのまま活かしたい」と連れてきて作ったのが『最も危険な遊戯』なわけ。

セントラルアーツ作品が黒沢さんの古巣の日活撮影所で制作されることが多かったのも、
結局は「東映の撮影所・スタッフで作るよりは安かった」からだと思う。

黒沢さんが気の毒だったのは、結局は東映では最後まで「低予算映画・TV映画・Vシネマ」
専門プロデューサーの様に扱われたこと。
そういう扱いは80年代以降に『Wの悲劇』『ビーバップ』『あぶ刑事』など大作・ヒ
ット作に絡む様になってからも基本的には変わらなかった。

東映グループ内でも黒沢さんはあくまで「セントラルアーツ・東映ビデオの人」で最後まで
外様だったからね。
実績的には本当は東映の社長になってもおかしくないぐらいの人だったのに、90年代
以降も延々とVシネ(系低予算映画)の制作を続けたのってつまりはそういうことですよ。
昔スターで後年没落した人物だけを語ろう 27ファイナル
318 :独り言a.k.a元祖御用一般人 ◆rI5oCip.d6 [sage]:2018/12/03(月) 23:36:04.79 ID:yPeTNMdR
「Vシネも後年は大物が出なくなりキャストがショボくなった」と言われてもねえ、、
あれは大物の多くはVシネの現場の安さや「所詮は劇場公開しない(やっても小さな劇場で形だけ)」
という状況を嫌っていたから仕様がない。
実際、現場は本編やTV映画に入れない未熟なスタッフも多く、監督・撮影などメイン
だけは有名どころで助手以下のスタッフがボロボロなんて普通だったから。

黒沢さんも内心では良いとは思っていなかっただろうが、当時はただでさえ「使える」スタッフは
(そこそこカネの掛かった)本編・TVドラマが押さえてしまっていたし、Vシネも
「億」単位の予算が使えたのは初めの頃だけで途中からはメーカー・制作会社の過剰
参入のダンピング合戦で製作費は下がるばかりだったし、どうにもならなかった。

黒沢さんも結局は「岡田茂に都合よく使われた」悲運の人だと思う。

日活も70〜80年代は内部はずっとゴタゴタしてたみたいだし、そこを岡田茂が
「黒沢も東映に来い、自由にやらせるから」「セントラルアーツは東京・京都に次ぐ
東映の第三の撮影所!」と持ち上げて上手く使った感じ。

黒沢さんも内心では不満はあったろうが、ただ東映グループ内にいた方が映画・TV・Vシネ
と仕事が回る事もあり(東映の後ろ盾の外に出るともっとキツくなる)、東映グループの
中にいるしかなかったのだろう。

個人的には「黒沢満のような人がいなくなった頃、往年の日本の商業映画・TVドラマの
良質な部分も完全に消え去る」とずっと思っていたし、そしてたぶん本当にそうなると思う。
昔ながらの「商業作品」「娯楽作品」のノウハウを知り抜いていた最期の世代の重鎮が
遂にいなくなった。

、、、名実ともに日本映画は遂に死んだ。


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