- 部落の人の名前★24
327 :名無しさん@お腹いっぱい。 (ブーイモ MMc9-7bx0 [210.138.177.112])[]:2020/06/27(土) 02:50:43.59 ID:49piDB2wM - 自然と文化 第62号「瀬戸内を生きた人びと」
http://www.zaidan.info/seikabutsu/1999/00240/contents/017.htm 沖浦…たまたまでした。一九七〇年に広島県が家船民俗の緊急調査を行っている。 瀬戸内海には約六〇〇の被差別部落があるのですが、家船の人はほとんどがその傍に入ってきている。 というのは、素性のよく分からぬ外来者を、一般の町民や農民は受け付けません。 正体も分からない漂海民が入って来て居着かれたらどうなるかというわけですね。 それで受け入れてくれたのが自分たちも差別を受けて、底辺から世の中を見て人情も厚い部落の人たちだった。 部落のすぐそばに家船が住むようになったという事実は、河岡武春さんが前から指摘していたことです。(『海の民』平凡社1987) 村上水軍が織豊政権に徹底的に抵抗します。それで秀吉が「海賊停止令」を発令した。これは「刀狩り」と同じ日なんですね。 それで朝鮮侵略に協力した海民は水主浦(かこうら)に住むことが許された。 水主浦とは、役が課せられて、平民(百姓)に取りたてられ漁業権が認められた人たちが住む村です。 しかし豊臣政権、朝鮮侵略に協力しなかった人たちは、一軒前の漁業権が認められなかった。 漁民のほとんどは浄土真宗の門徒で一向一揆に参加していましたから、織田、豊臣側には付かない。 そういう人たちには漁業権が与えられなかった。だから家船漁民や被差別部落民になっていったのではないかと思います。 瀬戸内の被差別部落には、村上水軍の末裔を名乗る所が多いのです。 沖浦…秀吉が全国を制覇してから、水軍の幹部クラスだった海武士は「船方(ふなかた)」として各藩に取りたてられる。 村上水軍の中でも徹底的に織田・豊臣政権に抵抗した村上武吉は、毛利氏の船方なる。 最後は四〇人ほどしか残らなかったといわれています。二、三万人はいたと推定される村上水軍は、日頃は漁民として生活していました。 上の海武士たちはこのように船方として雇われていくチャンスがあったのですが、下部の漁民たちはどこにも雇われなかった。 結局、漁業権もないままに沖合いを漂泊して漁をやる家船になるしかなかったのではないかと考えています。 部落民も海村に住みながら、漁業権は持っていなかった。
|
|