トップページ > 人権問題 > 2015年01月30日 > ZGqEma6i0

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名無しさん@お腹いっぱい。
熊本

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熊本
595 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2015/01/30(金) 18:32:46.19 ID:ZGqEma6i0
エタの語源
http://ryuchan56.269g.net/article/17855240.html

『塵袋』にエタと書かれた人々は、キヨメすなわち鴨川の河原に居住していたエミシ系官賤民である。

『建内記』正長元年(1428)六月一〇日条に、

川原者 穢多事也 参入

と書かれており、1444年(文安元)に成立した国語辞書『下学集』(かがくしゅう)に、

えた 屠児也 河原者

とある。また、1446年(文安三)に成った『〇(あい・土に蓋)嚢鈔』(あいのうしょう・『塵袋』に倣った国字・漢字などの解説書)に、

河原ノ者エツタト云ウハ何ノ字ゾ。
エツタトイイツク也。常ニハ穢多ト書ク。ケガレ多キ故ト云ウヲ古キ物ニ餌取ト書ク。真ニハエトリト云ウベシ。

(改行します)

餌トハ肉鷹等ノ餌也。其レヲヒサグ物ナレバエトリト云ウ。タト云ウハ同意也。エトリヲエタト云ウハ、リヲ略セル詞也ト云エリ。

生キ物ヲ害メ売ル者ヲバ唐ニハ屠者ト名ヅク。
ホフル者ト云ウ也。天竺ニ旃陀羅ト云ウモ同ジ餌取躰(エトリテイ)ノ膩(キタナ)キ者也。屠殺ヲモエタト読ム也。

とある。大意は、「河原者をエッタというのはなぜか。エッタといい慣れているが、通常は穢多と書く。
これは、ケガレ(穢れ)が多いためであるが、古い書物などでは餌取と書いているから、本当はエトリというべきであろう。」

「鷹などの餌(えさ)である肉を売る者だから、エトリといった。
エトリをエタというのは、リを略したのである。生き物を殺して売る者は唐(中国)では屠者、すなわちホフル者という。
天竺(インド)で旃陀羅という者も餌取に似た不浄の者である。屠殺もエタと読む」というものであろう。
熊本
596 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2015/01/30(金) 18:33:41.10 ID:ZGqEma6i0
この記事から、エタ=河原者=餌取=屠者であることが知られるが、エタという語が、
エトリ(餌取)に由来するという『塵袋』の説に対しては、異説が多数出されている。

喜田貞吉(「エタ名義考」『民族と歴史』二巻一号)も、エトリ説に賛意を表しながらも、異説をいくつか提出している。
次に、その中の主なものを、二つほど紹介したい。

一つは、エタはエトリ=屠者ではないというのである。喜田貞吉によると、『塵袋』のエタはキヨメすなわち掃除人足であった。
1362年(貞治元)の『師守記』にみえる「穢多」は井戸堀り人足であった。
また、1365年(貞治四)の『師守記』にみえる「穢多」は、祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)の駕輿丁(かよちょう・かごかき)であった。
『あい嚢鈔』にみえる「エッタ」は河原者であった。
そして、『雍州府志』(ようしゅうふし・1680年代に成立)に「穢多の本(もと)」と書かれている京都の小島・舁揚(かきあげ)の部落が、
平安時代の墓場であった佐比・石原の地であったことから、これらの部落は墓所の世話人に起因したと考えられるので、
墓守が同時にエトリ=屠者ではあり得ないというのである。

今一つは、エタは、エッタといわれていることが多く、『あい嚢鈔』にも「エッタ」とあり、
『芸苑日渉』(げいえんにっしょう・1807年に成立)には「越多」と漢字で書かれている。
エトリがエッタと転訛することがあろうかというのである。

江戸時代中期の学者谷重遠(『秦山集』)も、エタは古代に移配されたエゾ(蝦夷)の子孫で、「えぞたみ」が略されてエタとなったという説を唱えている。

このほかにも、いろいろな異説が出されているが、いずれも根拠のない憶測にすぎないので、紹介を省くことにする。

さて、エタの語源を考えるにあたっての有力な史料として、『天狗草紙』(てんぐぞうし)がある。
『天狗草紙』は、1296年(永仁四)ごろ制作された絵巻物で、『天狗草紙』伝三井寺巻第五段には、次のような詞書(原文のまま)がある。


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