- 熊本
596 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2015/01/30(金) 18:33:41.10 ID:ZGqEma6i0 - この記事から、エタ=河原者=餌取=屠者であることが知られるが、エタという語が、
エトリ(餌取)に由来するという『塵袋』の説に対しては、異説が多数出されている。 喜田貞吉(「エタ名義考」『民族と歴史』二巻一号)も、エトリ説に賛意を表しながらも、異説をいくつか提出している。 次に、その中の主なものを、二つほど紹介したい。 一つは、エタはエトリ=屠者ではないというのである。喜田貞吉によると、『塵袋』のエタはキヨメすなわち掃除人足であった。 1362年(貞治元)の『師守記』にみえる「穢多」は井戸堀り人足であった。 また、1365年(貞治四)の『師守記』にみえる「穢多」は、祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)の駕輿丁(かよちょう・かごかき)であった。 『あい嚢鈔』にみえる「エッタ」は河原者であった。 そして、『雍州府志』(ようしゅうふし・1680年代に成立)に「穢多の本(もと)」と書かれている京都の小島・舁揚(かきあげ)の部落が、 平安時代の墓場であった佐比・石原の地であったことから、これらの部落は墓所の世話人に起因したと考えられるので、 墓守が同時にエトリ=屠者ではあり得ないというのである。 今一つは、エタは、エッタといわれていることが多く、『あい嚢鈔』にも「エッタ」とあり、 『芸苑日渉』(げいえんにっしょう・1807年に成立)には「越多」と漢字で書かれている。 エトリがエッタと転訛することがあろうかというのである。 江戸時代中期の学者谷重遠(『秦山集』)も、エタは古代に移配されたエゾ(蝦夷)の子孫で、「えぞたみ」が略されてエタとなったという説を唱えている。 このほかにも、いろいろな異説が出されているが、いずれも根拠のない憶測にすぎないので、紹介を省くことにする。 さて、エタの語源を考えるにあたっての有力な史料として、『天狗草紙』(てんぐぞうし)がある。 『天狗草紙』は、1296年(永仁四)ごろ制作された絵巻物で、『天狗草紙』伝三井寺巻第五段には、次のような詞書(原文のまま)がある。
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