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74 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 07:30:27.81 ID:rc3a4c9y0 - 第3回 ナチス・ドイツの人体実験とニュルンベルク・コード
今回は、ナチス・ドイツの医師たちによる人体実験と、それを裁いた基準である、いわゆる「ニュルンベルク・コード」をめぐる歴史的事実を振り返ってみます。 I. 法廷と罪状----何をやったのか ナチス・ドイツを連合国が裁いたニュルンベルク国際軍事裁判のうち、米国が単独で担当した12のいわゆる「継続裁判」の第一法廷の第一事件は、23人の被告のうち20人が医師であるという特異な裁判でした。 「医師裁判 the Doctors' Trial」とか「医学事件 the Medical Case」とも呼ばれるこの裁判は、ナチス・ドイツ時代に医師たちによって、医学の名の下に、行われた犯罪を裁くものだったのです。 裁判は米国式に行われ、検事団と裁判官はみな米国人でした。 ニュルンベルク裁判の根拠となったのは、1945年12月20日に定められた「ドイツ管理委員会法・第10号 Control Council Law No. 10」です。この第2条第1項に 「平和に反する罪」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「国際軍事法廷によって有罪とされた犯罪集団および組織の成員であること」の4つの罪が規定されています。 この法律は1943年10月30日(発表は11月1日)にルーズベルト・チャーチル・スターリンが署名した「ドイツの残虐行為に関する宣言」(モスクワ宣言)と、 1945年8月8日に米・仏・英・ソ4国の代表が署名した、枢軸国の戦争犯罪の訴追と処罰に関する合意(ロンドン合意)に基づいていました。 医師たちの訴追は「共同謀議 The Common Design or Conspiracy」「戦争犯罪」「人道に反する罪」「犯罪組織への所属」の4点にわたって行われました。 第1点の「共同謀議」とは、戦争犯罪と人道に反する罪への荷担を共謀したという罪状です。また第4点は、ナチス親衛隊へ所属していたことが問われました。 そして、第2点「戦争犯罪」と第3点「人道に反する罪」の罪状として挙げられたのが、以下に述べる、人体実験などの事柄でした。
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75 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 07:33:33.35 ID:rc3a4c9y0 - >>74 つづき
(A) 超高度実験 ドイツ空軍が新しく開発した戦闘機は、イギリスの戦闘機よりも高い高度を飛べるように、高度18000mまで上昇できるようになっていましたが、このような高度における低い気圧に操縦士が耐えられるかどうかが問題でした。 12000m以上の高度に匹敵する低圧実験は、志願者に著しい苦痛を与えたために中断せざるを得ませんでした。そこで空軍軍医大尉のS. ラッシャー医師(敗戦前に死亡)、ドイツ航空実験研究所のS. ルッフ医師およびH. W. ロンベルグ医師は、 ナチス親衛隊次官のR. ブラントの許可を得て、低圧実験室の中にダッハウ強制収容所の囚人を入れて高度20000mに匹敵する低気圧にまでさらす実験を、1942年3月頃から8月頃まで行いました。 ユダヤ人やポーランド人やロシア人捕虜約80人がこの実験で亡くなりました。実験の経過は克明に記録され、死体は解剖されました。かろうじて生き残った被験者もひどい後遺症に苦しみました。 (B) 低体温実験 空中戦で撃墜されパラシュートで脱出した後、北海に落ちたパイロットは、冷たい海水にさらされて凍死することがありました。そこでドイツ空軍軍医中佐G. A. ヴェルツ医師はラッシャーと協力して、 低体温状態に陥った人間を蘇生させる実験を、ダッハウ強制収容所で1942年の8月頃から1943年の5月頃まで行いました。囚人たちは、耐寒飛行服を着せられて氷水のタンクに3時間漬けられるか、 凍てつく戸外に裸で9時間から14時間さらされたあと、さまざまな方法で体を温められました。被験者の体温測定や血液の採取が行われ、死亡した被験者の解剖も行われました。 温める方法は、熱い湯につけるほか、親衛隊元帥ヒムラーの命令でラヴェンスブリュック強制収容所から4人のロマ(いわゆる「ジプシー」)の女性囚人を呼び寄せ 、裸にさせて被験者を2人ずつの間にはさんで体温で温めさせるということまで行われました。この実験で約90人の囚人の生命が奪われています。 実験結果は1942年10月にニュルンベルクで行われた医学会議で、ラッシャーにより「低体温の防止と治療」と題して、またヴェルツにより「危険な点にまで冷却した後の温め直し」と題して、 それぞれ発表されています。
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76 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 07:36:17.89 ID:rc3a4c9y0 - >>74 つづき
(C) マラリア実験 やはりダッハウ強制収容所で、1942年2月頃から1945年ころまで行われたこの実験では、1000人以上の囚人たちが、汚染された蚊に刺されたり、 蚊の粘液腺からの抽出物を注射されたりして、人為的にマラリアに感染させられ、さまざまな予防薬や治療薬のテストに使われました。カトリックの司祭も被験者の中に含まれていました。 30人がマラリアによって死亡し、300人から400人が薬の副作用や合併症で亡くなったといわれています。 (D) 毒ガス実験 「ロスト」と呼ばれた毒ガス(マスタード・ガス)による火傷の効果的な治療法を開発するための実験で、1939年9月から1945年4月まで、 ザクセンハウゼンやナツヴァイラーをはじめとする各地の強制収容所で何度も行われました。被験者は毒ガスを肌に塗られ、全身に火傷を負ってひどい苦しみを味わい、 盲目になったり死亡した者もいました。被験者の傷や回復の様子は毎日写真に撮られ、死亡者は解剖されました。被験者や解剖で取り出された臓器の写真は写真集として公刊されました。 (E) サルファ剤治療実験 1942年7月頃から1943年9月頃までラヴェンスブリュック強制収容所で行われたこの実験は、 戦場での負傷にサルファニルアミド(サルファ剤)がどのくらい有効かを確かめるものでした。 被験者は足に切り傷を作られ、傷口に木くずやガラスの破片を擦り込まれ、数日後にサルファ剤で治療が試みられました。 銃創に似せる場合は、傷の上下の血管を結紮して血行が妨げられ、 ガス壊疽に感染させられました。被験者は死亡したり、ひどい後遺症に苦しんだりしています。
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77 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 07:38:21.14 ID:rc3a4c9y0 - (F) 骨・筋肉・神経の再生実験および骨移植実験
やはりラヴェンスブリュック収容所で、1942年9月頃から1943年12月頃に行われた実験で、女性の囚人から骨や筋肉や神経の一部を摘出してそれらが再生するかどうかを調べ、 また他者への肩胛骨の移植が試みられました。実質的には科学的目的すらなく、ただ被験者にひどい苦痛を与えただけの、無意味な実験でした。 (G) 海水飲用実験 ドイツ空軍と海軍の要請で1944年7月にダッハウ強制収容所で行われた、非常時に海水を飲めるようにするための実験です。被験者となった囚人は、 難破した時と同じように乏しい食糧しか与えられずに、4つのグループに分けられます。第1グループにはいっさい水分を与えられません。 第2グループには通常の海水だけが与えられます。第3グループには塩味を隠しただけで塩分はそのままの海水が与えられます。 そして第4グループには塩分を取り除いた海水が与えられました。ロマの人々、ユダヤ人、および政治犯が被験者として用いられ、 ひどい苦痛にさいなまれ、亡くなる人もいました。 (H) 流行性黄疸(肝炎)実験 1943年7月頃から1945年1月まで、ザクセンハウゼンとナツヴァイラー強制収容所で、流行性黄疸(肝炎)の原因と予防接種を研究するための実験が行われました。 11人のユダヤ人の子供を含む被験者は肝炎に感染させられ、肝臓穿刺を受け、死亡したり、著しい苦痛にさいなまれたりしました。 (I) 断種実験 アウシュヴィッツ、ラヴェンスブリュックほかの強制収容所で1941年3月頃から1945年1月頃まで行われたこの実験は、 ロシア人・ポーランド人・ユダヤ人その他の人々を、少ない費用でそうと気づかれないうちに大勢断種できる簡便な方法を開発するためのものでした。 数千人の人々がX線照射や手術や薬剤で不妊にさせられ、副作用に苦しみました。
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78 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/12/07(日) 07:42:02.30 ID:rc3a4c9y0 - (J) 発疹チフスなどの実験
1941年12月頃から1945年2月頃にかけてブヘンヴァルトとナツヴァイラーの収容所で、発疹チフスの実験が行われました。 ワクチンや薬剤の有効性を確かめる実験では、被験者の75%にワクチンや薬剤を投与され、3週間から4週間後、 発疹チフスに感染させられました。 残りの25%の被験者は「対照群」として、何の予防措置もなくチフスに感染させられました。 それだけではなく、単に発疹チフスウイルスの培地とするためだけに数多くの健康な囚人がチフスに感染させられ、 その90%以上が死亡しました。数百人の人々がこの実験の犠牲になっています。黄熱病、天然痘、 パラチフス、コレラ、ジフテリアの実験も行われました。 (K) 毒物実験 1943年12月頃と1944年10月頃に、ブヘンヴァルト強制収容所で、さまざまな毒物の影響を調べる実験が行われています。 ロシア人囚人の食事にひそかに毒が混ぜられ、死亡したり、生き残った場合でも解剖のために殺されました。 1944年9月頃には5人の囚人が毒を詰めた銃弾で撃たれ、弾が貫通した2人を除く3人が毒によって死亡したという実験報告があります。 (L) 焼夷弾治療実験 1943年11月頃から1944年1月にかけてブヘンヴァルト収容所で、焼夷弾による火傷の治療実験が行われました。 1943年11月には5人の被験者が英国軍の焼夷弾から取り出された燐で火傷を作られ、著しい苦痛を味わわされました。
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