トップページ > 人権問題 > 2014年11月04日 > AKtvppPQ0

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名無しさん@お腹いっぱい。
【時代の寵児】鳥取ループとは何者か【住所でポン】

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【時代の寵児】鳥取ループとは何者か【住所でポン】
980 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/11/04(火) 21:19:51.83 ID:AKtvppPQ0
1930年代融和運動下の「中堅人物」像 : 長野県における一青年の思想と行動
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29436/1/64_P37-53.pdf

木藤岩雄は1927年7月徴兵検査を受け、甲種合格で、翌年1月近衛師団野戦重砲兵第4旅団近衛野砲兵連隊(東京)へ入営する。
「岩雄がどうして近衛師団へ行けるのか」と言われたように、被差別部落から近衛師団に配属されるのは異例の事であった。
1927年の浦里村の徴兵受検者50名、内甲種合格18名、そのうち15名(志願1名を含む)が現役兵として入営した。
近衛師団へは2名配属さている。浦里村から近衛師団への配属は毎年1名ないし2名あり、めずらしいことではなかった。
しかし、被差別部落出身者の近衛師団配属は初めてである。
木藤岩雄にとってこの近衛師団配属が青年団活動とともにその後の彼の思想と行動とを語るうえで重要な転機となった。
入営後、通信兵としてモールス信号、通信機材の組み立て、電話配線等の教育を受けている。
競技会においてモールス信号の連隊競技、更には個人競技で1位をとるなど成績は良く、
11月に上等兵、翌年11月、伍長勤務上等兵で予備役になっている。
在営中精勤賞を3本もらい除隊時に連隊で上から4番の成績で下士官勤務適任証を受けている。
近衛師団で下士官勤務適任証をもらうのは浦里村からは2人目である。
青年会においてけっして前面にでることのなかった木藤岩雄にとって近衛師団の軍服を着て、
しかも下士宮勤務適任証までも受けて村に帰ったという事実は決定的であった。
「部落に生を受けた以上、反逆の精神は常にもち続けていた」が、「国家あっての国民、国家を度外視した国民はありえない」。
「日本の国は日の丸のもとに一致団結していかなければならない」と考えるようになったと木藤岩雄は述べている。
【時代の寵児】鳥取ループとは何者か【住所でポン】
981 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2014/11/04(火) 21:20:35.85 ID:AKtvppPQ0
徴兵前においては青年会の友人や、高倉輝などを窓口に社会主義思想に触れた木藤岩雄は、
村に帰った後は青年会との接触も減り、農民運動とは全く関係をもっていない。
急進化する友人たちとは、皇室に対する見解を異にし、快を別つこととなる。
自ら、近衛師団を分岐点に「極左から極右へ」と変わることとなったと述べている。
木藤岩雄にとっては近衛師団での「名誉に何としてでも恥じない自分でありたい」という願いが人一倍強かった。
1941年9月木藤岩雄は、兵長で入営している。同和奉公会の主事補の職責のままでの入営であった。
同和奉公会の主事・主事補で軍隊に行った者は木藤岩雄以外にはいない。
入営後、木藤岩雄の部隊は中国戦線を転戦している。ここでは情報下士宮として働いている。
情報下士宮とは、民間人を装い諜報活動、敵地域の撹乱などを任務とする。
入営時に木藤岩雄は妻(村長宮下周の媒酌で1937年に結婚)と離婚している。
「はたして帰ってこれるかわからない」、さらに長野県同仁会発足以来長野市へ、
その後東京へと単身での赴任が続き、共に生活をしたことがほとんどなかったことが別れた理由であったと述べている。
敗戦後の木藤岩雄は、東京の同和奉公会へは戻らず、長野県の嘱託として志賀高原上林温泉のGHQのレスト・ホールで
渉外課の仕事をしていた。この時期、部落解放運動に参加して欲しいという要請を多く受けるが、
部落解放運動に対しては共感がもてず、断っている。以後部落差別に関わる運動には一切関わっていない。


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