- 【畿内】B地区が存在しない?都市【平和】
70 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/09/17(水) 23:07:55.24 ID:X8bh2bKb0 - ただ、なぜ「穢多」村に浄土真宗だけが広がったのかについての明証はなく、一般的には、
たとえば、中世の浄土真宗が移動する商工業者(渡り者)に教線を広げたとされ、「穢多」村 にはそうした商工業者が多かったためと考えられたり、被差別の立場を前提に、来世での 阿弥陀仏の救済を願ったためだとも説明される。しかし、中世の商工業者のすべてが 浄土真宗門徒ではなく、また、逆に「穢多」村住人のすべてが商工業者だったわけでもない。 とくに奈良町の商工業者には日蓮宗信者が多く、また被差別といえば、ここまで見てきたように、 大和には「穢多」以外の被差別民が多数存在したのである。 そうした人々や村々がすべて浄土真宗に帰依したことは歴史的に確認されず、大和の場合、 同じ被差別民集落である夙村や三昧聖村には浄土宗や融通念仏宗も数多く見られるのである。 したがって、近世大和の「穢多」村にある寺院がすべて浄土真宗寺院であることの合理的な説明は 今のところできず、残された史料からはその一端さえもうかがえない。
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- 【畿内】B地区が存在しない?都市【平和】
71 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/09/17(水) 23:17:04.98 ID:X8bh2bKb0 - 苗村神社 三十三年式年大祭 2014/10/11(土)〜13(月)
http://www.rmc.ne.jp/dragon-kanko/namura-jinjya/event/33nen.html 滋賀県竜王町苗村神社では33年に1回行われる祭りがある。 その時に、氏子の中の部落の者が兜鎧に身を固めて行列に参加する。 この部落は農業を中心とした集落で、豊かな集落である。 苗村神社ができた時の創建の由緒があるから、つまりその部落が神様を連れてきたという由緒である。 それでも彼らは差別を受けた。つまり結婚がないと思われる。私的な交流の場からたたれている。それが差別である。 部落史研究はそこまで到達した。 苗村神社の行列が続いてきたのは、だれもが創建の由緒を動かしがたい事実として知っていたし、事実として認めていた。 ここに部落差別の本質を見いだすことができるのではないかと考えている。 神官の問題だが、祝(しゅく)と屠(と)という概念は、部落差別で極めて複雑で重要な問題だと考えている。
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72 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2014/09/17(水) 23:31:27.33 ID:X8bh2bKb0 - 桑田郡保津村
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00010164&elmid=Body&lfname=kj00000651793.pdf 当村の未解放部落は南北両村に存在したが、北村の場合は、隠墓と称され、宗門帳末尾に編別されている。 たとえば、宝暦一○年(一七六○)の「人別宗旨御改帳」では隠墓九軒九人組五三人、与次郎一軒四人、番人一軒二人が記載されている。 文政以降の宗門改帳では表紙に「隠墓人、与次郎別帳」と記入され、与次郎のみは別帳になっている。 「与次郎」は与次郎六兵衛が「御城下河原町与次郎頭与七郎弟三拾八年以前卯年当村へ来番人仕性○」とあるように、仕事は「番人」であった。 隠墓の家の通婚通縁関係は、文政三年(一八二○)から慶応四年(一八六八)までの宗門帳でみる限り、第四表のようになっている。 圧倒的多数は他村の同一身分との婚姻養子縁組であるが、もし、宗門帳に記載洩れがないとすれば、五九件のうち一○件が他村平人と婚姻縁組を結んでいる。 これは幕末に近くなって平人との婚姻が増加したわけではなく、すでに宝暦一○年の宗門帳でも六件の平人との通婚・縁組・奉公がみられるから、 はやくから脱賤化のための平人との通婚がすすんでいたと考えられる。 しかも第四表中の一○件の平人との通婚は、六軒の家にのみみられ、しかも、そのうち四軒は平人との通婚が二件ずつみられる。 このことは領主ちがいの土地の平人との通婚による脱賤化の意識的努力のあらわれとみられないこともない。 また天保一二年(一八四一)の宗門帳記載の惣助後家は「城州伏見松屋町近江屋勘右衛門娘三一年以前縁付来候処、勝手筋ニ付親元方へ三年前□来候」 として宗門帳の現存者からはずされておる。 同家には娘一人しか残っていないから、「勝手筋」とは家族内の紛争とは考えられず、おそらくは、前章にのべた天保期の洛中洛外の戸口調とのかかわりがあると考えられる。 とすれば、身分ちがいの通婚に対する制約は、むしろきびしくなったといえないこともない。
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