- 徳島の同和問題を語りましょう
687 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2013/09/08(日) 00:40:15.49 ID:Reu+bPTX0 - 20世紀初頭におけるアカデミズムと部落問題認識 −鳥居龍蔵の日本人種論と被差別部落民調査の検討から−
http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=TB12242947&elmid=Body&lfname=007000910005.pdf A 徳島県名東郡新居村 次に鳥居が被差別部落民を調査したのは、郷里の徳島においてである。1897年9月、鳥居は自身が組織した四国人類学会の会員とともに、新居村に赴いている。 同村T地区での調査における鳥居の関心は、@にみた被差別部落民の習俗にではなく、その身体に向けられた。 鳥居によれば、当初、生体計測という試みについては当事者に嫌忌されるのでは、と心配したという。 しかし意外にも住民は「毫も嫌色を表はさゞるのみか寧ろ喜び進んで之に応ずる有様」だったと述べている〔『徳島日日新聞』1897・9・21〕。 日本人に対する生体計測は、1883年にドイツ人医師・ベルツが発表した研究[ベルツ1973]が最初とされ、 彼の論文は後に形質人類学への道を開くことになる小金井良清らを発奮させるきっかけとなった[工藤1979]。 当時、身体計測は、西欧の学問の中で盛んに行われていた。 とくにフランスのポール・ブロカによって率いられた「パリ人類学」派は、頭蓋計測学をもちいた人種分類にもとづき、人種研究を推し進めたことで知られる。 彼らは黒い皮膚、縮毛、顎の突き出した顔、長い頭などは劣等な人種の特徴とする認識を共有し、肌の色や頭形にあらわれる人種差や男女差を、知的能力の差とみなした。 これらは今日の視点からみれば、科学的な人種差別主義、性差別主義とみなしうる内容であった。[グールド1998][竹沢2001]。 この時期以後、鳥居は各地でこの手法を用いた調査研究を行うことになる。 当該期の日本の学問は西洋起源の方法論の摂取に懸命になっていた。 鳥居の学問にもこうした時代的制約が影を落としていたことは否定できない。
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688 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2013/09/08(日) 00:42:00.42 ID:Reu+bPTX0 - 鳥居がとくに関心を向けたのは人びとの脳頭蓋の形質であり、それを評価するため頭示数(cephalic index、頭長幅示数ともいう)の算出に熱中している。
頭示数とは、人体頭部の前後の最大長と左右の最大幅を計測し、頭最大長/頭最大幅×100によって算出した指数である。 当時の西洋において人種分類の指標として盛んに用いられた概念で、鳥居の試みは日本の人類学者としては最初期のものであった。 彼が人種的起源を探る方法として採用したこの手法は、後の形質人類学における主潮流となっていく。 さて同地区の調査報告について見ておきたい。鳥居は同所10名への身体計測によって得られた被差別部落民の特徴を、 「頭の形の幅広ならざる事、眼の蒙古的ならざる事、頬骨の突起せる事、顔の長き者の希なる事、鼻のトビナルド表中の第一(側面より見たる時湾曲無きもの)多き事、 髪の生え際の好く揃ひたる事、髭髯と脚毛と少しく有るのみにて他には体毛と称すべきもの存せざる事」と報告している。 また鳥居が強調したのは「蒙古眼」の特徴が見られないことで、これは多数の地元小学校の生徒についても同様であったことを指摘している。 さらに頭示数の平均が75と「頭の幅狭隘なること」に言及し、これが「所謂マレイ諸島ポリネリヤン島の土人即ちマレヨポリネリアン種族に類似せるを発見せり」 と述べている[鳥居1897]。 この結果を受け、鳥居は部落民について「朝鮮人の帰化せし者なりとの説は少しも信ずるに足らざるなり。 蓋し一も其帰化らしき体質を認めざればなり。若しも彼等が朝鮮的体質なるならば彼等の目は必ず蒙古的ならざるべからず。 亦頭形がブラキセフワリック即ち幅の広きものならざるべからず。 然るに彼に在りては此要素を少しも認むる能はざるに於ては寧ろマレー的体質を備ふるものに類似せるなり」と述べ、朝鮮半島からの帰化人とみなす認識を批判する。
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689 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2013/09/08(日) 00:43:33.24 ID:Reu+bPTX0 - また鳥居は、先述したベルツの説を引き、日本人種が蒙古人種、マレー人種の二系統からなるとする見解を紹介した上で、
このうち被差別部落民が後者の体質を備えている、と述べる。よって「穢多なる者は普通人中の或る形式に類似せる者にして、 決して普通人に見ざるが如き特別なる形式を具へたるものには無之候」と結論づけている。 ただし、これをもって鳥居がかつて@で示唆していたように被差別部落民を先住民とみなす理解の否定に転じたかといえば、ことはそう単純ではない。 後でみるように、大正期に有力となる鳥居の固有日本人説が登場する中で、彼の被差別部落民への理解はさらに変容を遂げてゆくことになる。 ここでは鳥居が、当該期の学術動向に基づいて日本人と部落民の人種関係を究明しようとしていたことを確認しておきたい。
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690 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2013/09/08(日) 00:44:42.87 ID:Reu+bPTX0 - B 兵庫県飾磨郡花田村
1898年2月、鳥居は台湾調査から帰京途中、兵庫県に立ち寄り、中国人類学会の会員らと共に飾磨郡花田村へ調査に赴いている。 同所T地区で20歳〜49歳の8名の計測を行ったところ、頭示数の平均が76.87であった。調査の助手を務めた人物は、 頬骨、眼、髯などの形質においてAの徳島県名東郡における調査とほぼ同様にマレー形式の身体的特徴が発見されたと語っている〔『神戸又新日報』1896・2・16〕。 ちなみに同年10月、坪井正五郎は東京人類学会の年次大会において「実に最近一年間に我々の得たる著しい新知識」として 「特に諸君のご注意を乞ふ価値が有る」業績の筆頭に、鳥居の「穢多の人類学的調査」を挙げている[坪井1898]。 前年来の生体計測調査に対し、学会からは、高い評価が与えられ、注目が寄せられていたことが分かる。 C 徳島県勝浦郡小松島村 1900年12月、鳥居は東京帝大の命を受けて、勝浦郡小松島村に出張し、同所N地区にて調査を行っている〔『東人誌』177〕。 同所で14歳〜38歳の10名の計測を実施した結果、頭示数の平均は74.48であった。 これを受けて、東京人類学会の例会にて「穢多の調査」と題する報告を行っている〔『東人誌』178〕。 さらに後の1939年、岡本は徳島を訪ね、鳥居の部落調査の検証を試みている。 これによれば、鳥居は同地での調査後、小学校長に宛て手紙で「高崎部落は天孫民族と同型である」旨を報告したとされる。 これについて岡本は「部落民は人種が違ふ劣等民族であるかのやうに思ふてゐる世人の蒙を啓く好資料」である、 「これで部落民は元来は優秀民族であることを専門家の科学的調査で立証されたのである」と述べている[岡本1941]。 しかし本稿でみたように、岡本による説明は鳥居の調査結果および彼の理解とは異なっている。
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