- 北陸新幹線小浜京都ルート頓挫後を語る 2頓挫目
592 :名無し野電車区[sage]:2021/08/24(火) 06:10:12.94 ID:R4do6dql - >>590
>政権交代前の自民党は、羽田の国際便は台湾に限るとか、チャーター便に限るとか言っていた。 それ過激派が成田闘争してたころの話では?日付入りの発言ソースある?
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- 北陸新幹線敦賀以西ルートスレ★318(スレ番改訂)
149 :名無し野電車区[]:2021/08/24(火) 21:07:17.88 ID:R4do6dql - 秋田に宮崎にオシャマンベまである大盤振る舞いの基本計画に、米原の文字なし。豆な。
https://i.imgur.com/slQ1C3M.jpg
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155 :名無し野電車区[]:2021/08/24(火) 22:06:20.58 ID:R4do6dql - >>150
そこはどうでもいいというか、いずれ誘致されるのは関係者なら想像ついてただろう。 問題は、北陸中京からすら外された不思議。小浜のせいでもなんでもなく。
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157 :名無し野電車区[]:2021/08/24(火) 22:14:54.42 ID:R4do6dql - 夏以降、全国各地の県知事、県会議員、代議士などによる目白詣では激しくなった。
その中に、福井県知事の中川平太夫の姿があった。 国鉄が北陸新幹線について当初計画していたルートは、4通りあった。 現在の北陸線沿いに米原から東海道新幹線へ出るルート、琵琶湖の南側か西側を通って大阪へ出る2つのルート、そして若狭湾沿いに走り、京都を経て大阪へ入るルートの、計4ルートである。 中川がめざしていたのは、若狭湾沿いに走る若狭ルートだった。 「若狭ルートを通れば、小浜市を経由する。小浜の過疎を食い止めるには、何としても北陸新幹線が必要だ」 と考えた中川は、国鉄、鉄建公団、自民党三役などに陳情攻勢をかけた。 なかでも、最終決定権を握るといわれる田中首相への直接の陳情は、4回にのぼった。 そしてついに、田中の”聖断”が下される日が訪れた。 8月12日午前7時半、場所は目白台の田中邸。この日のやりとりは、以下のようなものだったという。 《首相「ウン、若狭ルートだな。これは必ずやる。オレがやると言ったら、必ずやるよ」 知事「ありがとうございます。それやったら満点でございます」 首相「ただし、京都市内を通るのはいかん。あれは古い町だからな。若狭から亀岡へ出るルートでやろう」 知事「それで結構でございます。ありがとうございます」》(『毎日新聞』1973年10月7日)
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158 :名無し野電車区[]:2021/08/24(火) 22:15:36.91 ID:R4do6dql - つまりソースは毎日伝聞。
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161 :名無し野電車区[]:2021/08/24(火) 22:24:16.29 ID:R4do6dql - >>159
法案は、引き続き自民党の総務会や政調合でも了承され、9,000キロメートルの新幹線計画は、国会に提出されるばかりになっていた。 しかしここに、意外な事態が起きる。 時の首相・佐藤栄作が別表に反対を表明したのである。 4月10日、佐藤は関係者を呼びつけた。 官邸に集まったのは、橋本登美三郎運輸大臣、水田政調会長、鈴木総務会長、江藤智と、運輸省鉄道監督局長の町田直。町田の記憶によると、佐藤は強い調子で言った。 「別表はいけない。建設する路線が法律に書いてあれば、地元から要求が来れば断れない。 予算がこま切れにつけられ、効率の悪い建設になる。 それに、世の中の状況というのは、時代につれて変わってくる。 今、新幹線が必要だと思っても、あとになって必要なくなることもあるし、逆に、法律に書いてなくても、将来必要になって困るかもしれないじやないか。 別表ははずせ」 運輸省出身で、政治家から赤字線を押しつけられることの苦労を知っている佐藤の言葉は重かった。
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162 :名無し野電車区[]:2021/08/24(火) 22:48:30.48 ID:R4do6dql - >>150
10月12日、田中は、午前中の閣議の前に新谷寅三郎運輸大臣から外遊中の国内の動きについて報告を受けた。 田中と新谷は、新たに9新幹線約3,400キロメートルの調査・建設の建議を鉄道建設審議会に要請することで合意した。 新谷は閣議のあと、こう言っている。 「今後建設する9新幹線の延長は約3,400キロメートルで、今までの新幹線3,500キロメートル(東海道、山陽、東北、上越、成田と前述の調査5線)と合わせ、今年5月に決定された経済社会基本計画による全国新幹線網7,000キロメートルを昭和60年までに建設するという構想にマッチするわけだ」 (『交通新聞』1973年10月13日) 新たな9新幹線とは、9月、田中が鈴木との会談で決めた新たな4路線を、北海道(札幌−旭川)、北海道南回り(札幌−室蘭)、中央(新宿−甲府−岐阜−高山−奈良北部−大阪)、西部縦貫(大阪−明石−鳴門−高松−松山−佐田岬−大分−熊本)、九州東(博多−大分−宮崎−鹿児島)、日本海(青森−新潟−富山)の6路線に編成しなおし、さらに奥羽(福島−山形)、湖東(敦賀−米原−大阪)、山陰の3路線をつけくわえたものである。 つまり角栄が基本計画に米原ルートを加えようとしたのは、小浜ルート内定より後の73年10月。しかも湖東としてで、中京は案すらなかった。 ところが11月の告示では、なぜか湖東はなくなり米原は消され、敦賀名古屋の北陸中京が基本計画入り。 この謎、もう少し調べてみる。
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