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神も仏も名無しさん
坐禅と動中の工夫15

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坐禅と動中の工夫15
159 :神も仏も名無しさん[sage]:2021/04/04(日) 14:17:53.92 ID:YlmtK7W8
>>58
その引用に書いてあることは、例えば聖求経でのブッダの言説を否定するものになるように思えます。

(以下、パーリ中部『聖求経』より引用)

自ら生けるものの存在にして生けるものの過患を知り、無生、無上、安穏のニルヴァーナを求めつつ、無生、無上、安穏のニルヴァーナを悟った。
自ら老いるものの存在にして老いるものの過患を知り、不老、無上、安穏のニルヴァーナを求めつつ、不老、無上、安穏のニルヴァーナを悟った。
自ら病むものの存在にして病むものの過患を知り、無病、無上、安穏のニルヴァーナを求めつつ、無病、無上、安穏のニルヴァーナを悟った。
自ら死ぬものの存在にして死ぬものの過患を知り、不死、無上、安穏のニルヴァーナを求めつつ、不死、無上、安穏のニルヴァーナを悟った。
自ら憂えるものの存在にして憂えるものの過患を知り、無憂、無上、安穏のニルヴァーナを求めつつ、無憂、無上、安穏のニルヴァーナを悟った。
自ら染汚するものの存在にして染汚するものの過患を知り、無染汚、無上、安穏のニルヴァーナを求めつつ、無染汚、無上、安穏のニルヴァーナを悟った。

(中略)

涅槃を得たわたくしには、知見が生じた。わたくしの解脱は不動である。これが最後の生まれである。もはや再生することはない(二度と生まれることはない)。

わたくしが感得した真理は深遠で、見がたく、理解し難く、静寂で、すぐれていて、思慮の領域でなく、微妙で、賢者によってのみ知られる性質である。

(中略)

だから、わたくしが苦労して得たものを、いまは説く必要はない。貪りや怒りに負かされている人々には、そもそもこの真理は理解しがたい。

(中略)

比丘たちよ、如来へ、名前で、また―友よ―という言葉で、呼びかけてはいけない。比丘たちよ、如来は、阿羅漢であり、正等覚者なのである。
比丘たちよ、耳を傾けなさい。不死は得られたのである。わたしは教えよう。私は法を説こう。
坐禅と動中の工夫15
160 :神も仏も名無しさん[sage]:2021/04/04(日) 14:23:47.99 ID:YlmtK7W8
>>114
>鳩摩羅什は、「諸々の法」(諸法)を「教え」から「あらゆるものごと」に広げて一般論化して、相(外面に現れた姿・形)、性(内在的性質)、体(本質・本体)、力(内在的能力)、作(力の具体的顕現)、因(内在的な直接原因)、縁(補助的間接原因)、果(因・縁の和合による内在的結果)、報(果の具体的顕現)、本末究竟等(相から報までのすべてが融合していること)──という存在の在り方、因果の理法などの十如是として展開していたといえよう。

サンスクリット原文の時点で法は「あらゆるものごと」に訳されていますね。

如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、『如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。』
すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。
それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ。
如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ
― 岩本裕による口語訳出

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%A6%82%E6%98%AF

以上、気になった箇所二箇所を指摘させていただきました。
坐禅と動中の工夫15
201 :神も仏も名無しさん[sage]:2021/04/04(日) 21:19:11.34 ID:YlmtK7W8
>>172
植木訳はこうですよ。

 シャーリプトラよ、如来の知っている諸々の法、〔その〕如来の法について、如来こそが説き示すであろう。『シャーリプトラよ、あらゆる法についてもまた、如来こそが説き示すのである。7あらゆる法についてもまた、如来こそが知っているのである。』
 それら諸々の法は、何であるのか、また、それらの諸々の法は、どのようにあるのか、また、それらの諸々の法は、どのようなものであるのか、また、それの諸々の法は、どのような特徴を持つのか、
また、それらの諸々の法はどのような固有の性質(自性)を持つのか
ーーすなわち、それらの諸々の法は、何であり、どのようにあり、どのようなものであり、どのような特徴を持ち、どのような固有の性質を持つのかということを。
それら諸々の法に対して、如来だけが〔この五つの点において〕明瞭であり、明らかに見ているのである。

です。
鹿野園さんの引用ではここでの質問で一番肝心で、なので『』で今回も括った『シャーリプトラよ、あらゆる法についてもまた、如来こそが説き示すのである。7あらゆる法についてもまた、如来こそが知っているのである。』を省略されていますが、別なソースを見られたのでしょうか?
私は『サンスクリット原典現代語訳 法華経 上 植木雅俊訳』より正確に上記引用をしております。

また特に「それらの諸々の法はどのような固有の性質(自性)を持つのか」を如来自身が説く教えに当てはめるのも疑問です。
わかりやすくするためにそれ一つを抽出すると
「如来こそが説き示すあらゆる法(存在するもの)について、それらの諸々の法はどのような固有の性質(自性)を持つのか、如来だけが明瞭であり、明らかに見ているのである」とするのが適切かと。
「如来こそが説き示す教えについて、それらの諸々の法はどのような固有の性質(自性)を持つのか、如来だけが明瞭であり、明らかに見ているのである」ではおかしいです。

>>160に引用しました岩本訳も同じですよ。

如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、、『如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。』

この敢えて『』で括った箇所で「教え」ではなく「あらゆるものごと(岩本訳では現象)」であるのが明確かと。
いや、正しくはその前の「如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし」から『にするべきでしたね、ここは私のミスでした。
坐禅と動中の工夫15
203 :神も仏も名無しさん[sage]:2021/04/04(日) 21:36:44.31 ID:YlmtK7W8
>>159 自己レス&補足

ここに引用させていただいた中部『聖求経』でのブッダの言葉

・自らニルヴァーナを悟った。
・涅槃を得たわたくしには
・わたくしが感得した真理は
・だから、わたしが苦労して得たものを
・如来へ、名前で、また―友よ―という言葉で、呼びかけてはいけない。比丘たちよ、如来は、阿羅漢であり、正等覚者なのである。(如来、阿羅漢、正等覚者と自称している)
・不死は得られたのである

これらは>>58に鹿野園さんが引用された

>したがって、修行者が「成仏」したり「悟る」ことはない。
>なぜなら、ある時点で「成仏した」「悟った」と「わかった」瞬間、それが認識である以上は概念化するわけで、結局は超越理念として扱われるからである。
>それは「観無常」の立場が決して許容しない事態である。
>そうなると、成り行きは「成仏」「悟り」が無限遠に後退し、現実的に無効になり、修行や坐禅は事実上、ただ坐禅する、ただ修行する、ということになる。
>「成仏」と「悟り」は坐禅・修行という行為そのものへと脱落されるのだ。

と相容れないと思います。

まあ南直哉氏は禅の方ですからこのような言い回しになるのは仕方ないかもしれません。
でもその場合、「禅ではそうみなす」的な補足がないと、阿含経を読んでる人からは「それはブッダの言葉ではない」と思われるかもしれません。

もっとも、その本の他の箇所でそのような補足がされているのかどうかは、私は存じ上げませんが。
坐禅と動中の工夫15
205 :神も仏も名無しさん[sage]:2021/04/04(日) 21:43:12.66 ID:YlmtK7W8
>>202
>1.植木訳は縮訳版を引用してます。

了解しました。
縮小版は

>鹿野園さんの引用ではここでの質問で一番肝心で、なので『』で今回も括った『シャーリプトラよ、あらゆる法についてもまた、如来こそが説き示すのである。7あらゆる法についてもまた、如来こそが知っているのである。』を省略されていますが、別なソースを見られたのでしょうか?

のた『シャーリプトラよ、あらゆる法についてもまた、如来こそが説き示すのである。あらゆる法についてもまた、如来こそが知っているのである。』が省略されていることがハッキリしましたね。

>2.”>鳩摩羅什は、「諸々の法」(諸法)を「教え」から「あらゆるものごと」に広げて一般論化して、”という見解に異がなければこの話は終わりです。

鳩摩羅什訳ではなくサンスクリット原典の時点で諸々の法は「教え」ではなく「あらゆるものごと」であった、ということです。

『シャーリプトラよ、あらゆる法についてもまた、如来こそが説き示すのである。あらゆる法についてもまた、如来こそが知っているのである。』

『また、それらの諸々の法はどのような固有の性質(自性)を持つのか』
坐禅と動中の工夫15
211 :神も仏も名無しさん[sage]:2021/04/04(日) 21:45:50.81 ID:YlmtK7W8
>>207
私のことですね!?
了解しました、私は退散します。失礼しました。


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