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68 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 00:12:16.14 ID:3SOcKVeG - スマナサーラはパーリ語経典も随分暗記してるし駒沢で博士課程の教育を受けてる
彼に直接聞いてくればいい スリランカのグナラタナ長老も慈悲の瞑想には「私」は入る パオ森林僧院の長老パオセヤドーも慈悲の瞑想に「私」は入る これらみんな仏教じゃないというのかね? 馬鹿言うなよ
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70 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 00:14:20.51 ID:3SOcKVeG - >>67
精一杯なのはわかるけど ただの馬鹿ですね
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71 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 00:29:06.34 ID:3SOcKVeG - いや、自分怒ってないよなあ…
鏡見たらスゲー穏やかそうな顔してたw 素直に疑問だけどどこかおかしかった?言ってみて ↓ 52 神も仏も名無しさん 2020/03/25(水) 23:32:03.62 ID:3SB+YTho 私は誰かの役に立ってるのではなくみんなで生きてる 慈悲に生かされてるとは思えても 自分が慈悲の主体だなんて自惚れたことは思えないね
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74 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 09:50:10.81 ID:3SOcKVeG - >>72
文化人類学とかでのアジア文化の分析なのね わざわざ5000円も出して開発僧についての本を買う人って学者かプラユキ信者くらいなものでしょう で、それらには 「社会貢献の業務が慈悲の実践であり、慈悲の瞑想はオナニーである」 「慈悲の瞑想はゴータマ仏陀の説いたことではない」 とか書いてありました?
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75 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 09:51:30.00 ID:3SOcKVeG - >>73
ありがとうございます励みになります
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79 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 11:44:40.11 ID:3SOcKVeG - >>76
話が見えてないだけじゃないか ボランティアなどでそこに意図せずに慈悲が現れるということはあるだろう ということは認めてるし、少なくとも自分は断罪はしてないね 具体的能動的な働きかけとしての「慈悲の実践」を慈悲とイコールにし、 慈悲の瞑想だけでは実践ではないと断罪してる人たちがいるだけ そのことを断罪している そもそもその論理だって、慈悲の瞑想=慈悲を前提としてるんだけどね 意味わかりますかね 瞑想やらない人にはチンプンカンプンかもしれないけど それなら口出し無用です お勉強頑張って下さいね(^^)
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81 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 12:02:44.96 ID:3SOcKVeG - その経典は自分は読めないし、引用したのも自分ではないから
内容については勝手にそちら二人で議論したらいい 別のブラウザを入れられないほど古い環境、古いIE使いながら5000円する開発僧の本を買う 開発僧への興味のかなり強い方ですよね 自分は開発僧自体否定しませんよ 困っている人を助けるのは人として良いことだと思いますが、 それをやって慈悲の実践だというのはおかしいと言ってるんです それこそ、どうかしてますよ?w いやいや、あなた方「他者への慈悲の施しの主体」なんですかね? 何如来様ですか? 全くどうかしてる そもそも、そんなに困ってる人がたくさん居るものなのでしょうか? 「開発僧」と称する必要は? ただ、人として困っている人がいれば放っておけないから助ける それってボランティアだってそうだし、慈悲の瞑想をしてる我々だってそうだ 「慈悲」とか「Loving-kindness!」とか書かれた服を着たほうが良いんでしょうか? 嫌ですねそんなの 人助けというのはなるべくそれとなくするものです 「俺様達は開発僧!慈悲をほどこしてやる」 「プラユキさんが正しくて、慈悲の瞑想はオナニー」 なんてアホですかね プラユキの言ってる事、信者の言ってることはそういうことです タイ仏教一般、開発僧一般としてそうだとは思ってません ここにくるプラユキ信者の論理の話をしています よろしいですか?
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82 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 12:04:00.24 ID:3SOcKVeG - >>78
ありがとうございます励みになります
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83 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 12:14:48.07 ID:3SOcKVeG - >>77
それは指導者としては正しいと思うね 無理にやらせるものではない 瞑想会に行くということはネットで「やんなよー」とか言われるのとは全く違う 強制力があるからね けれど、彼は自分ほど慈悲の瞑想を指導しない指導者は居ないとも言ってる 彼に習いに来る人は本当のビギナーしかいないってことがそこでわかる 瞑想難民とかいうワーディングがされてるけど要はビギナーのまま拗らせてる連中でしょ? 瞑想会で奇妙な行動をしたり、瞑想会を渡り歩いたり、フラフラフラフラしてる人たち 学級崩壊のクラスの子みたいな人たち つまり、普通の人が本を読んで二ヶ月程度自宅で習得することすらままならない人たち だから、手動瞑想という強制性のある瞑想で、その乱雑なモンキーマインドを収めようというわけだよね わかるよそれは 慈悲の瞑想に反発する人見ていてもわかる
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86 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 12:26:50.64 ID:3SOcKVeG - >>84
やっぱり話が見えてない そうやってどんどん話がズレていくから 落ち着いてよく読んでからレスしてくれないかな
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88 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 12:39:38.10 ID:3SOcKVeG - 君自身、慈悲の瞑想の慈悲ということがどんなことかわからずに
能動的な実践を慈悲とイコールにしてるからわからないんだろう その様に見える もとに話を戻すが 瞑想ですら出来ないことが具体的な行動に結びつくはずもないんだが 慈悲の瞑想に抵抗がある人が、なんで開発僧を根拠にオナニーだ!までいえるんだ? 慈悲の瞑想に限らず、瞑想というのはやり始めたときと続けていったときでは 深さ、強度のようなものは違ってくる 実践もクソもない まずそこがすっぽり抜けてるんだよね プラユキ信者も君も 無償でなければならないのは当たり前でしょう 開発僧は人助けでお金もらうならそれはただの便利屋じゃないか?! それは僧の仕事じゃない 実態はよく知らないが、開発僧の活動は無償でやる しかし、僧としての修行生活に布施はもらう そうであるべきだろう仏教なのだから そこに「慈悲の主体」という問題が出てくるという話なんだがなぁ ちょっと難しすぎるかな?
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89 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 12:43:47.51 ID:3SOcKVeG - 訂正
慈悲の瞑想に限らず、瞑想というのはやり始めたときと続けていったときでは 深さ、強度のようなものは違ってくる 瞑想から始めなければ実践もクソもない マインドフルネスであれ慈悲であれそういうものなんだよ まずそこがすっぽり抜けてるんだよね プラユキ信者も君も
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91 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 13:02:37.59 ID:3SOcKVeG - 慈悲というのは能動的、明示的に自分が主体となって行う
というようなものでは決してないよ 金もらったりだとか、出来れば「開発僧」なんて称してやるもんではない >>90 そうだよ 話を短絡すれば矛盾に見えるだろう つまり、その人は慈悲とか第五図はわからない 従って、開発僧のような実践のみを正とした事を言うべきではない
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95 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 13:53:27.22 ID:3SOcKVeG - 第五図ということに絡めて慈悲について話すならば、
第五図というのは瞑想のある程度進んだ人たち(皆ではないが)の言う観察者のこと これは観察者などという言い方をするくらいで、あたかも他力であるかのように働いており 苦の滅がある、家の造り手を見る、もちろん生滅は止まる つまるところ常、楽、無我の涅槃ということだ 能動的に慈悲を施すなんてことは出来ないのは、それが無我だから 実際そうだからとしか言いようがないんだけど その観察主体が普段自分とされてる自分ではない何かであるということが重要なのね その観察主体が現れるということが、ビギナー卒業 カバットジンとかの本読んで大体二ヶ月で出来ること 慈悲の瞑想にも抵抗がなくなる つまり、慈悲を施す主体が自分という意識があるところに瞑想の行き詰まりと同じものがある そう思ってるよ
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96 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 13:54:13.12 ID:3SOcKVeG - >>93
言葉だけの理解で単語並べるのは止めたほうが良いね
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97 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 13:55:50.50 ID:3SOcKVeG - 突き詰めていけばその観察者、つまり慈悲の主体は他ならない自分自身だが
それは仏典にも書いてあるものの、単語の訳が違う意味の方でしか訳されてないことが殆どだけど 山下さんが「青空が青空をみている」といったことそのものを仏陀も説いてる 僕も見てる そこに色即是空空即是色があるのもよく見てるよ 瞑想において慈悲の主体は自分だが、あたかも他力 だが日々の生活において慈悲の主体が自分であるなんて感覚は全く無いよ 肉体として生きている自分は慈悲の主体ではない 肉体を生じさせている主体、涅槃が慈悲の主体だから さて しかし、それは瞑想の中のことであって 瞑想の外で「自分が慈悲の主体である」なんてことは全く思わないものだね やはり「あたかも他力」なんだよ だから、「人助けの活動こそが慈悲の実践だ」というのは違和感どころか 全くのニセモノだとわかってるわけw もちろん、プラユキさんは本心そこまで傲慢なことは思ってないかもしれないが そう取れるに十分なことを言ってしまってるからね 魚川さんも、プラユキさんが「雑なマウンティング」をしまくって困惑したことを言ってる 開発僧のみなさんにとってそれが共通見解ではないだろうとも思っているよ その話とごっちゃにしないでくれ
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98 :神も仏も名無しさん[]:2020/03/26(木) 14:04:34.63 ID:3SOcKVeG - 「この私こそが慈悲の施しの主体者である」
なんて思うことは出来ないけれど、もしもそう思ったとしたら 慈悲なんてものは現れないだろうな ちょっと、そんな意識を持とうとしただけで、そこにはあらゆる勘違いが生じうると感じる だから人助けはさり気なく、俺がやったったという形にせず、やるものだと思いますね ただし、貧しい国の行政の行き届かない地域ではそうも言ってられないから 開発僧ということで活動するのもわかるよ それが悪いとは言ってない
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