トップページ > 心と宗教 > 2020年02月09日 > byUWBsz0

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神も仏も名無しさん
マインドフルネス Part.25

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マインドフルネス Part.25
577 :神も仏も名無しさん[sage]:2020/02/09(日) 17:24:13.65 ID:byUWBsz0
『雑阿含経』 (No.801)
  宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

このように私は聞いた。ある時、仏陀は[コーサラ国の首都である]舎衛国(サーヴァッティー)は祇園精舎に住しておられた。
その時、世尊は告げられた。
「比丘たちよ、五法がある。
多くの利益をもたらす安那般那念(アーナーパーナサティ)を修習すべきである。
何をもって五とするであろうか。
浄戒・波羅提木叉律儀(250戒)に則り、威儀・行処具足して、微細なる罪にも畏れを生じ、学戒を受持することが第一である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。
また次に比丘たちよ、少欲・小事・少務であること、これが第二である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。
また次に比丘たちよ、飲食について量を知り、多すぎず少なすぎずの適量を摂ること。飲食するに際して欲望を起こさず、精勤して修禅する。これが第三である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。
また次に比丘たちよ、初夜・後夜にも睡眠を貪らず、精勤して瞑想すべきである。これが第四である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。
また次に比丘たちよ、静かな林の中にあって、諸々の喧噪を離れること。これが第五である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである」と。
仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜した。

        現代語訳:沙門覺應
http://www.horakuji.com/dhyana/texts/zou-agon_kyou/1.htm

ここでは安那般那念という瞑想法を修習するにあたり、五つの事柄について整えることが説かれています。
まあ現代人特に在家にはこの五法を整えるだけもハードルが高いですが…。
マインドフルネス Part.25
578 :神も仏も名無しさん[sage]:2020/02/09(日) 17:24:46.80 ID:byUWBsz0
>>577の続き


安那般那念は後の部派仏教の時代に数息観としてメソッドが生まれました。
詳しくは↓
http://www.horakuji.com/dhyana/sikan/anapana_sati.htm

安那般那念は呼吸法ではないとのことですが、自分の経験からは呼吸はヨガのように細く長くして瞑想した方が気持ちが良いですし、
身体が消えて鼻から胸までの一本の呼吸器官だけがあるような感じがすると同時に精神集中しやすいですし、気持ちが良いせいか組んだ足も疲れません。
でも伝統では呼吸法ではないようです。

なお、上記サイトが長いと思われる方はページ途中の

◼︎息を数える ―両悪・二瑕穢を離れる

からご覧頂けば、ここから先に安那般那念の奥義?が書いてあるように思われます。
マインドフルネス Part.25
579 :神も仏も名無しさん[sage]:2020/02/09(日) 17:43:08.30 ID:byUWBsz0
>>576
慈悲の瞑想はチベット版のトンレンの方がよりイメージを伴う観想法となっているために観の瞑想ということが分かりやすいかもしれませんね。

密教瞑想のご紹介|「トンレン瞑想」
https://masa-yoga.com/learn/938/

まあ手法はともかく趣旨はテーラワーダ版でも、またお経を読んだ後の回向でも同じだとも思いますが。

テーラワーダ版のは滑舌が悪くてあまりしませんが、それでも仏壇に手を合わせるときは最後に「生きとし生けるものが幸せでありますように」と必ず唱えるようにしています。
マインドフルネス Part.25
590 :神も仏も名無しさん[sage]:2020/02/09(日) 23:39:53.91 ID:byUWBsz0
>>578 自己レス

>安那般那念は呼吸法ではないとのことですが、自分の経験からは呼吸はヨガのように細く長くして瞑想した方が気持ちが良いですし、
>身体が消えて鼻から胸までの一本の呼吸器官だけがあるような感じがすると同時に精神集中しやすいですし、気持ちが良いせいか組んだ足も疲れません。
>でも伝統では呼吸法ではないようです。

と書いた私ですが、私が貼ったリンク先の真言宗法楽寺の安那般那念(数息観)を見直して見ると

「初め呼吸をのみ対象としてこれに集中し、心を鎮め、そしてさらに呼吸の状態をただ淡々と見つめる。
その結果として、心に妄念無く、喜楽が生じる。
これに伴って、呼吸は長く深く、そして細く、やがて極限まで少なく「なっていく」。
しかし、それもやはり淡々と見て、それら感覚にとらわれずに心の状態を見続け、ついには無常・無我・苦を現観して涅槃に到達するのが安般念です。」

とあり、涅槃に到達するはないですが、自分の数息観もこちらかなと思いました。
最初から息を細く長くしようと思っても出来ないものなんですよね、苦しくなって。
坐禅している内に段々と『勝手に』呼吸は長く深く少なくなっている、というのが自分においても現状だなと思います。
私でさえそうなのだから、同じような経験をしている方は多いのでないかな……と勝手に思ってしまいますがw

そして最後まで読むと、何よりも必要なのは地道に続けること、諦めないこと、とありますが、
正精進が八正道の一つになっている理由が読んでるだけで分かったようなw
さて、こちらも不退転の覚悟で数行き数息観をしますかね、一日20分で。


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