トップページ > 心と宗教 > 2019年10月15日 > nJ66BmEv

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神も仏も名無しさん
イエスはわたしの救い主

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イエスはわたしの救い主
589 :神も仏も名無しさん[]:2019/10/15(火) 00:17:34.62 ID:nJ66BmEv
>>Mewさん
早速一つの疑問を述べておきます
ただ今は先客がいるようなので、話題は彼を優先して時期がいい時にでも再開、と前置きしておきます

神を知る、という作業は意識の肥大化か縮小化が限度なく発達してしまうのではないか、と考えました
実際にぼくも経験があるからです
神の如く善悪を知っているかのような自惚れと、それに秘められた承認を求める自己卑下という仮の謙遜、人間を超越しているという点では「神に似た」状態であったとも今では思います

だけど「似ている」だけで、パウロのいうような神が内で生きている、ということの真似事にすぎなかったとも自覚しています
そしてさいあくなことに、まるで魅せられたように、この誤解を自分で解くのは難しいです

似ている、ということと、神を自己で認識しているため内部で生きている、ということはまったく違うことなのかもしれません
しかし見分けがつかないように似ているため、それは傲慢という罪を背負うことになる、なんて個人的には解釈しています

そういう自己肥大化から救いとなったのが、癒しスレで書いた葛藤という内的な対立感情でした
だから、自我と無意識(願いなど)を対立させていくことが神を認識する方法だと思い、そしてそれが宗教ではないだろうか、と書きました
そして牧師的な経験をされているまちこさんにも尋ねてみたのです
そして向こうで書いたように得られたことがあります
「神の考えと自分の考えは別の道にあることだと」

Mewさんなら、ヨハネの聖句の如くイエスキリストを知る、ということをどう解釈されますか
イエスはわたしの救い主
594 :神も仏も名無しさん[]:2019/10/15(火) 21:49:18.44 ID:nJ66BmEv
こんばんは

>>590
読ましてもらいました
読んでいて思い出したことは、神をこれ以上なく意識した時のことです
大きな必然性に圧倒された時、人間はもらうことしかできない存在なんだと自覚したさせられた経験もあったと思います
その瞬間が今でもどこかで、ぼくのエゴの抑制として残っているのかもしれないです
ただし大きな苦痛でもありますけど

なぜだかは分からないけれど、ぼくには物事を原理主義的にとらえようとする傾向が昔からあります
だから神の問題はこれ以上にないテーゼになりました
信じるならば自分を手放すか、信じないで自分を留めるか、そう考えると意識と無意識がなにか分離したような気分で葛藤するのかもしれません
それがキリストを求めることとして、ポジティブな何かなのか、ネガティヴな何かなのかは正直自分でも分からないですけど

ぼくは、完全性と十全性についてどちらも完全であるけれど、完全性とは悪をふくまない一面的なこと
十全性とは悪もふくんで全体的なこと、なんて解釈しています
あってますか
もっとも伝統的キリスト教とは異なる自覚はありますけど、後者の方が自分の認識には近いようです
イエスはわたしの救い主
595 :神も仏も名無しさん[]:2019/10/15(火) 21:59:07.08 ID:nJ66BmEv
>>593
はい、そうです
勝手に個人的な話をしてしまっていますが、うみなみさんも時間があったらよろしくお願いします

>>浄土真宗さん
まちこさんのスレでレス読みました
気にしてもらってなんか悪いっす
だけど気にしないでくださいね、話題はなんでも入りたくなったら勝手に横入りしますのでw


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