- 阿含宗という宗教 305
695 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2019/10/15(火) 20:49:23.37 ID:izgYkx0P - >>686神も仏も名無しさん2019/10/15(火) 12:04:13.69ID:6a2jbbad
>だから「心の安定」という訳語に執着して、 >他の経典で解脱の意味で使われているからといって、三学経典でも解脱であるということにはならないのです。 先に言うが、あなたの議論はスレ違いで、私は答えるべき義務はない。 ペテン大作さんは、中村博士は他の経典で「心の安定」を解脱の意味として使っているが、 彼の沙門果経の和訳は「心の安定」ではなく「心の統一」だから、 解脱の意味ではない、と言いたいのですか? 中村説 「心の安定=解脱」「心の統一≠解脱」 と言いたいのですか? わざわざあなたの言いたい事を確認するのは、毎度何を言っているのか、 自分ばかりわかったような書き方で意味不明なのです。 「心の安定 その原語(samadhi)は三昧と音訳される。心を統一して思うこと。」 (『ブッダのことば』中村元、217ページ) 中村博士は「心の安定=心の統一」と述べているのです。 あなたは、中村博士は両者を別な意味に使ったかのような 言い方だが、同じ意味に使っている。 あなたの主張は根拠のない毎度の屁理屈、イチャモンです。 だから、私が昨年引用した経典の心の安定は、沙門果経の心の安定や 心の統一と同じ意味です。 釈尊は心の安定、心の統一を解脱の意味に用いているのです。 また、他の学者たちが心の安定と訳そうが、心の統一と 訳そうが、意味は変わりません。 十年間の議論を見ればわかるだろうが、私は両方用いている。 なぜなら、あなたと違い、両者は同じ意味だと知っているからです。
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696 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2019/10/15(火) 20:55:33.07 ID:izgYkx0P - >>686神も仏も名無しさん2019/10/15(火) 12:04:13.69ID:6a2jbbad
>他の経典で解脱の意味で使われているからといって、三学経典でも解脱であるということにはならないのです。 「他の経典で解脱の意味で使われている」とペテン大作さんは認めるのですね? つまり、私が昨年示した阿含経の心の安定が解脱だとあなたは認めるのだ!? 素晴らしい進歩だ。 読者の皆さん、ペテン大作さんが、他の経典にある「心の安定」は 解脱だとようやく認めました。 拍手してください! 自爆したことにも気が付いていませんね。 あなたは、私が引用した中村博士訳の「心の安定」を上記のように 「解脱の意味で使われている」と認めてしまった。 ところが、中村博士は「心の安定=心の統一」だと述べている。 つまり、沙門果経の「心の統一」とは「心の安定」のことです。 しかも、あなたは中村博士の「心の安定」は解脱だと認めたのだから、 沙門果経の「心の統一」を解脱だと認めたのと同じです。 ・・・もしかして、自爆の説明を受けても、自爆したことがわかりませんか?
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697 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2019/10/15(火) 21:00:05.32 ID:izgYkx0P - >>686神も仏も名無しさん2019/10/15(火) 12:04:13.69ID:6a2jbbad
>原語が「入定した」という意味ならば、解脱の意味など無いのです。 これも何度も何度も私からも、ユビキタスさんからも くり返し説明されても、まだわからないのでしょう? 賛成しろと言っているではなく、相手の説明をまず理解してから 反論してはどうかと言っているのです。 あなたはこちらの説明を理解できないから、無視して、 ひたすら自説をくり返す。 そういう点は>>679-681の1.5来補さんのタワゴトとそっくりです。 ペテン大作さんや1.5来補さん以外の信者さんたちに説明します。 受け入れなくてもいいから、まず説明を理解してください。 釈尊は瞑想の技法で解脱したのではなく、瞑想の時も 煩悩に囚われないようにしたから解脱したのです。 瞑想だろうが、飯だろうが、トイレだろうが、 煩悩に囚われない状態を保つのが解脱なのです。 定の一つである瞑想の技法で解脱するなら、アーラーラ・カーラーマなどの 二人の師匠の瞑想の技法だけで解脱したはずです。 彼らは瞑想の技法としては最高レベルです。 釈尊は彼らの瞑想の技法を採用している。 だが、瞑想の技法で解脱したのではなく、どんな瞑想をするのでも、 煩悩に囚われない状態を保つこと、これが解脱だと説いたのです。 どんな食事をする時でも煩悩に囚われないようにすること、 これが解脱だと説いたのです。 瞑想で解脱するのではなく、日常のすべてにおいて煩悩に囚われ ないようにすること、これが解脱です。
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698 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2019/10/15(火) 21:05:30.68 ID:izgYkx0P - >>686神も仏も名無しさん2019/10/15(火) 12:04:13.69ID:6a2jbbad
>原語が「入定した」という意味ならば、解脱の意味など無いのです。 安那般那念経で、桐山さんが15種類の呼吸法を 説いているという爆笑解釈をした件も、あれは、 どんな呼吸をする時も煩悩に囚われないようにしろ、という意味です。 長い呼吸も短い呼吸もと並べているのは、同じ言葉を何度も 並べて強調するためで、この場合は、「どんな呼吸の時も」という意味です。 これを15種類の呼吸法と解釈したのだから、まるで幼稚園児です。 釈尊は具体的な瞑想法も呼吸法も説いていない。 だから、桐山さんは呼吸法を弟子に秘密に伝授したなんてインチキ解説をしていた。 釈尊は教師の握り拳(秘伝)はないとはっきり宣言している。 阿含経に呼吸法すらないのを見れば、釈尊が呼吸法など説かなかったことは あまりに当たり前です。 瞑想をしていたにもかかわらず、具体的な瞑想の技法もありません。 だから、三十七道品の中にも「定」はあるが、瞑想(禅)はありません。 他の信者さんたちは不思議に思いませんか? 実際の阿含経が桐山さんの話とかなり違うことに少しは気が付いてください。
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699 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2019/10/15(火) 21:10:16.70 ID:izgYkx0P - >>686神も仏も名無しさん2019/10/15(火) 12:04:13.69ID:6a2jbbad
>原語が「入定した」という意味ならば、解脱の意味など無いのです。 「定」を瞑想だと解釈する人たちがいるが、違います。 くり返すが、その証拠に三十七道品には瞑想(禅)は出てこない。 日常坐臥、出家は常に定を保つのです。 定とはそのままの意味で、定まったまま動かないことです。 これは一般的な意味ではなく、 「煩悩に対して動かず定まる」のです。 私たちは常に煩悩の誘惑にさらされ、右往左往している。 煩悩具足という言葉があるように、煩悩と一体になっている。 釈尊は、煩悩を観察し、決別し、影響されないようにしなさいと説いた。 煩悩から左右されないから定まり、安定し、不動になる。 これが釈尊のいう解脱です。 これを瞑想の時だけでなく、飯を食っている時も、 歩いている時も、風呂に入っている時も、他人と話をしている時も、 常に一刻も気を抜くことなく、定の状態を続けて、絶対に自分の身口意の 三つの行為(カルマ)の中に煩悩が漏れ出ないようにする。 これが釈尊のいう解脱です。 他の信者さんたちはこういう目で釈尊の次の言葉を読んでください。
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700 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2019/10/15(火) 21:16:24.59 ID:izgYkx0P - 「このようにして、心が安定し、清浄で純白となり、汚れなく、心に付随する小さな煩悩をも離れ、柔軟になり、
行動に適用し、不動なものとなると、かれ(修行者)は、(次のような)理解動作に対して心を傾け、(心を)むけます。」 森祖道訳(『原始仏典1 長部経典T』春秋社、96頁) 他の信者さんたちは意味がわかるでしょう? 「心が安定」以下、すべて煩悩からの解放、つまり解脱のことです。 ペテン大作さんは視野が狭いから、心の安定しか見えないようだが、 心の安定以下、清浄、純白、汚れなく・・・不動なもの、 これらすべてが解脱の意味です。 というよりも、解脱をこのように表現している。 解脱とは阿羅漢という資格を得るという意味ではなく、 煩悩に囚われない状態を「保ちつづけること」で、 保ち続けている人を阿羅漢というのです。 到達点は確かにあるが、生きているかぎり、いつでも転落する可能性がある。 だから、解脱に到達した人たちも一瞬も気を抜かずに、煩悩に囚われまいとして、 気を逸らさず(念)、集中し(定)、それを常に持続する努力をした(精進)。
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701 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2019/10/15(火) 21:20:54.34 ID:izgYkx0P - 「このようにして、心が安定し、清浄で純白となり、汚れなく、心に付随する小さな煩悩をも離れ、柔軟になり、
行動に適用し、不動なものとなると、」 こういう状態を保つためには戒律を守らなければならない。 戒律なくして定も慧もありません。 この三つが親亀と子亀のように、上下で積み重なっているではなく、 三本の柱のように互いに支えあっているのです。 三脚だから立っていられる。 三つが同時並行的に成り立つからこそ、解脱なのです。 「戒→定→慧」の順序でするではありません。 なぜなら、戒律をなぜ守らなければならないのかと考えるのは慧であり、 戒律を守るために心を常に安定させるのが定だからです。 この三脚が互いに支えあって、煩悩に囚われないようする状態が解脱です。 ペテン大作さんや1.5来補さん以外の信者さんなら、私の説明を受け 入れなくても、何を言っているのかくらい理解できるでしょう。 「煩悩からの解放」、これが釈尊の説いた解脱です。 この簡単な仏教の常識くらい受け入れたほうが良い。 どこにも因縁解脱、カルマ解脱、霊障解脱、三福道などありません。 全部、桐山さんの作った嘘です。 だから、ペテン大作さんにカルマ解脱の話をしようと 持ちかけても、彼は無視している。 阿含経から根拠が示せない事を彼は知っているからです。 ・・・いや、知らないのかもしれない。
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702 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2019/10/15(火) 21:27:46.80 ID:izgYkx0P - >>686神も仏も名無しさん2019/10/15(火) 12:04:13.69ID:6a2jbbad
>このように深山は本当に人を騙すのが上手い。 ペテン大作さんは、 学者の盂蘭盆経の論文を冒頭のまとめとは正反対の意味に解釈してみせた。 バローの本に漢訳経典だと書いてあるのに、パーリ仏典だと引用してみせた。 『原始仏教 第2号』は特殊な雑誌だから、誰も見ていないだろうと、 一部のみを引用して、学者が冒頭に書いた意味とは逆の意味に用いた。 昨年は、桐山本から異陰が消えているという嘘まで並べた。 そう言えば、準提功徳頌を龍樹の作だなんて言っていました。 仙尼経に霊的な存在があると書いたり、無いと書いたり、 主体がある書いたり、無いと書いたり、 霊魂があると書いたり、無いと書いたり、 煩悩からの解放を解脱だと書いたり、そうではないと書いたり。 嘘、デタラメ、インチキ、その場しのぎをしているのはペテン大作さんです。 ただし、あなたが「人を騙すのが上手い」とは思わない。 いつも暴露されて、勝利宣言をしながら、スッテンコロリン。 あなたも1.5来補さんも恥知らずだから、何も感じないのだろうが、 見ているこちらが恥ずかしい。
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703 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2019/10/15(火) 21:31:14.95 ID:izgYkx0P - >>686神も仏も名無しさん2019/10/15(火) 12:04:13.69ID:6a2jbbad
>★★「心の安定」にしがみついても無意味★★ ペテン大作さんはまた、自分のしていることを私がしていると言い変えた。 「心の安定」にしがみついているのはペテン大作さんでしょう。 十年もの間、しつこく、執念深く、年に何度も、心の 安定(統一)を出しているのはあなたであって、私ではない。 今回も、前回も、その前もすべてあなたです。 霊障のホトケのように心の安定の話に憑りついている。 桐山カルマ解脱「神通力によってカルマを断ち切り解脱する」 この桐山さんの解脱の件はどうなったのだ? この十年間、あなたは何一つ根拠を示せていないのですよ。 私もユビキタスさんも釈尊の解脱について説明した。 しかも、今回が初めてではない。 ユビキタスさんからも、あなたに解脱とは何かと質問すると いっさい答えないという指摘があった。 実際、今日もあなたはただ私に難癖をつけて自爆しただけで、 桐山カルマ解脱については何もなかった。 毎度のその見苦しい自爆ネタはもう見飽きたから、 本題に戻してください・・・もちろん、卑怯者の ペテン大作さんがするはずがない。 これだけ卑怯なのに、良くまあ、朝からギンギンなんて書いたものだ。 全然、男が立たないじゃないか。
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