- マインドフルネス Part.21
576 :神も仏も名無しさん[]:2019/07/31(水) 01:03:18.04 ID:m/ELO5LL - 剣豪・勝海舟は一人で寺の境内で剣を振り回しては坐っていたと言われる
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586 :神も仏も名無しさん[]:2019/07/31(水) 12:01:17.90 ID:m/ELO5LL - 確かに禅文化はマインドフルネス的なんだが
日本の(今の)禅では坐ったら一切の観察はしてはいけないとされてる 現在の曹洞宗では 「心意識の運転を停め、念想観の測量を止む」 をその意味で読み、容易くないことだとしている その解釈だと禅はマインドフルネスとは全く違うことになる しかし道元禅師がおっしゃったことはそういうことなのだろうか
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588 :神も仏も名無しさん[]:2019/07/31(水) 12:36:22.03 ID:m/ELO5LL - >>587
曹洞宗ではそれは心意識の運転とされている
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589 :神も仏も名無しさん[]:2019/07/31(水) 12:43:59.22 ID:m/ELO5LL - 「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、覚知が「不思量而現」という状態になることが、
覚知が坐禅の忠実な反映になるための不可欠の条件の一つなのだ。 しかしそれは実際なかなか容易なことではない。」 曹洞禅ジャーナル『法眼』 https://global.sotozen-net.or.jp/pdf/dharma-eye/de16/de16jp_05.htm
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591 :神も仏も名無しさん[]:2019/07/31(水) 12:55:05.69 ID:m/ELO5LL - >>589つづき
「坐禅は、「覚知的わたし」という夢から覚めて「自己の正体」に帰ることを実地にやることなのであるから、 やはり最終的には実際に正しい坐禅をする工夫を通してしか、この癖を根本的に矯正する道はない。 (略) 坐禅を試みてみればすぐに思い知らされることだが、自分が覚知と自己を同一視している限り、 ただ単純にそれを覚知として受け取れず覚知の内容にどうしても過剰に反応してしまい、 それにひきづられてしまう。そして、肝心の正身端坐の努力を忘れて覚知の中身を相手にして それをやり繰りするほうに重心をかけてしまうのだ。 そして坐禅が坐禅でなくなってしまう。」 覚知を巡って長々と書いてるが マインドフルネスから見たら全く単純なことだ 非思量になるメソッドがマインドフルネスだよ 曹洞禅では道元の言ったこととは違うことを思量、測量してやってるように思う
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592 :神も仏も名無しさん[]:2019/07/31(水) 13:07:20.12 ID:m/ELO5LL - >>590
止めるという意を起こす、というのはどこから出てくる話ですか 観えてるものを観ていれば勝手に止まるでしょう それがマインドフルネスの観察ですよ でも曹洞禅ではそれは心意識の運転だとする
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594 :神も仏も名無しさん[]:2019/07/31(水) 13:19:36.84 ID:m/ELO5LL - 思いを観ることも心意識の運転として止めるよう言われる
観ることは取り扱うことではないということが曹洞禅ではどうも理解されない
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597 :神も仏も名無しさん[]:2019/07/31(水) 13:23:46.47 ID:m/ELO5LL - マインドフルネスやテーラワーダ経験した人が
坐禅に戻って只管打坐になるということは何の不思議もないこと しかし、曹洞宗で教えてる坐禅、只管打坐はマインドフルネスではない 全く違う ここのところを誤魔化して騙すのは悪行だ 人を無駄に迷わせるだけだから
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