- いかに九次第定を極めるか
153 :神も仏も名無しさん[]:2019/06/25(火) 00:13:41.25 ID:9p+HHMLl - 縁起説とは何か
此れが有るから彼が有る、此れが起こるから彼が起こる。 【此有故彼有。此起故彼起】(「しうこひう、しきこひき」) 如是我聞。一時佛住拘留搜調牛聚落。時有異比丘。來詣佛所。稽首禮足。退坐一面。白佛言。世尊。謂縁起法。爲世尊作。爲餘人作耶。 佛告比丘。縁起法者。非我所作。亦非餘人作。然彼如來出世及未出世。法界常住。彼如來自覺此法。成等正覺。爲諸衆生。分別演説開發顯示。所謂 【此有故彼有。此起故彼起】。 謂縁無明行。乃至純大苦聚集。無明滅故行滅。乃至純大苦聚滅。佛説此經已。時彼比丘。聞佛所説。歡喜奉行 『雜阿含經』 (No. 0099 求那跋陀羅譯 ) 縁=(苦の)原因。起=生起する。直訳すると、縁起=(苦の)原因があるから(苦が)生起する。仏教は苦をなくすことが重要だから、縁という言葉も重要視される。 縁の例:行(形成力と訳される 諸行無常の行)、識(認識)、食、愛、喜、憤怒など。例:愛から憂いが生じ、愛から恐怖が生じる。愛から解放された者に憂いや恐怖はない。 要は、肉体や精神が制御できていない(縁をしらない)から、安らかになれない=因縁の空なるを知らぬから解脱(識の目覚め)に至れない 本来は自分自身の苦に関する原因と結果の話 http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm スッタニパータ731〜参照。 下半分は、浄土真宗本願寺派所属の善行寺(富山県射水市)在住の十川仁史氏の説を参考
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- 如来蔵思想は仏教ではない
12 :神も仏も名無しさん[]:2019/06/25(火) 06:52:23.61 ID:9p+HHMLl - Ⓠ龍樹と真言八祖の竜猛は別人物ということですね
A1 現代の学者はそう考えています。 年代で考えたら、同一ではあり得ないのです。 しかし、空海は中観の龍樹と、八祖の龍猛を同一と考えているので、真言教学においては、そこはグレーゾーンな扱いになっています。 中観 龍樹と、八祖 龍猛に関しては、単純な同名異人説もありますし、 「龍樹」という名に何か相承されて行くような特別な意味があり、その2人だけでなく、 複数の龍樹が存在したのではないかとする研究者もいます。 A2 > zys********さん 2019/6/2418:54:40 これですか? 「河口慧海や寺本婉雅は、『八十四成就者伝』の龍樹伝が 特異であることから、それに書かれた龍樹は、本来の龍樹の 没後(寺本によると6世紀)の同名異人であるとした。 この説では、本来の龍樹を「古龍樹 (Nāgārjuna I)」、 『八十四成就者伝』の龍樹を「新龍樹 (Nāgārjuna II)」と 呼び分ける。」 まあこういう説もある、ということですね。 私は単独説をとりますが。 >ダライラマ十四世も単独説ですね。それで思ったのですが、 龍樹という名もダライラマのように何代も襲名された可能性もあったのでしょうか。 あるいは転生活仏でアートマンとしては同一人物だったとか言ったら有身見すら脱してないと怒られそうですね。
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- 如来蔵思想は仏教ではない
13 :神も仏も名無しさん[]:2019/06/25(火) 07:28:49.38 ID:9p+HHMLl - >教義を混ぜてはイケナイって人が何人かいますが、テーラワーダとヒンドゥー教アドヴァイタは混ぜる必要はありません。
同じものなのだから、混ぜるも何もありません。 ただ、同じだってコトを、自分の眼(法眼)で観なくてはいけないだけです。 === 入門期には、どれか一つの教義を突き詰める方が楽です。 テーラワーダのアーチャン=チャーの法話集がオススメです。 瞑想実践はする方が良いです。 >テーラワーダではニッバーナ、アドヴァイタではタットと呼ぶモノに達することが大事です。 喉が渇いた時に、水やコップの議論を何時間しても、渇きは治まりません。 水を飲むしかないです。
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