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神も仏も名無しさん
--佛教論議の伽藍スレ-- 第三巻
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15

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--佛教論議の伽藍スレ-- 第三巻
693 :神も仏も名無しさん[]:2019/01/12(土) 15:47:29.19 ID:zRb6pzJo
スッタニパータ5章の学生ウバシーヴァの質問

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」

1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

と中論25章のニルヴァーナの考察も似ていると思う
--佛教論議の伽藍スレ-- 第三巻
694 :神も仏も名無しさん[]:2019/01/12(土) 15:48:50.79 ID:zRb6pzJo
「中論25章」より「スッタニパータ5章の学生ウバシーヴァの質問」との類似箇所の偈を抜粋


一〇 師(ブッダ)は生存(J註:原語で有の意もあるとの事)と非生存(J註:原語で無の意も)とを捨て去る(手放す)ことを説いた。それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが正しい。

二一 如来(ブッダ)は死後に存在するかどうか。世界は有限なものであるかどうか、など、世界は常恒なるものであるかどうか、などというもろもろの見解は、ニルヴァーナと【死後の】のちの世界と、【生まれる前の】未来の世界とに依存して述べられている。

二二 一切のものは空なのであるから、何ものが無限なのであろうか。何ものが有限なのであろうか。何ものが無限にして有限なのであろうか。何ものが無限でもなく有限でもないのであろうか。

二三 何が同一なのであるか。何ものが別異なのであろうか。何が常恒であるのか。何ものが無常なのであるか。また何ものが無常にしてしかも常恒なのであるか。また何がその両者(無常と常恒)ではないのか。

二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。そこではいかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かれることはない。
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15
665 :神も仏も名無しさん[]:2019/01/12(土) 20:04:51.97 ID:zRb6pzJo
>>664もまた思考ですので
--佛教論議の伽藍スレ-- 第三巻
706 :神も仏も名無しさん[]:2019/01/12(土) 22:13:21.16 ID:zRb6pzJo
>>698
形而上学質問には見解を持たない、断定しないブッダにとってはスタンダードで(アートマンの有無についてバラモンから訊かれたアーナンダ経にもその姿勢が出ています)、
中でもうなぎ論法こそブッダの問答の真骨頂とも言えるものだったと思いますよ

>>695のおじゃるさんの論法もうなぎ論法の片鱗が伺えるようにも思えますが
>>697の「ヴァッチャ火経」はリンク先では経の途中から詳しく書いていますが、
全文ではヴァッチャの形而上学質問にうなぎ論法よろしく四句分別全てにおいて「そう言わない」と言ってはヴァッチャを2度困惑させ2度目には理解不能にまで陥らせています
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7061601.html
まあ最後にはヴァッチャは全てにおいて納得してブッダに帰依するといういつものパターンとなるわけですが

さて、中論18章の8ですが、諸々のブッダの教えですから龍樹は過去仏も想定して解説していると思われます
一切は実であるは世俗諦、一切は実ではないは勝義諦、その後の2つは四苦分別の残り2つであるというのが通説ですが、
実はこの後の9偈にて

他のものによって知られるのではなく、寂静で戯論によって戯論されることなく、分別を離れ、異なったものではない―――これが真理の特質(実相)である。

とあり、8偈での諸々のブッダの教えは衆生の機根に合わせた対機説法であり、自ら真理を悟れば実であるとかないとかの分別はないのが実相であるとしています
スッタニパータなどでは識別作用の止滅と言われてますね
--佛教論議の伽藍スレ-- 第三巻
708 :神も仏も名無しさん[]:2019/01/12(土) 22:27:32.39 ID:zRb6pzJo
>>705
入滅、涅槃、「泥洹(ないおん)」は全てサンスクリット語のニルヴァーナの音写みたいですよ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%BB%85

まあ煩悩を滅して輪廻から解脱して死して即座に涅槃に入ることを入滅というというと解釈していましたが

>>703
そのような論点の噛み合わなさは知恵袋でも見たことがあります
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13156645303?__ysp=6Ku45rOV54Sh5oiRIOecn%2BeQhg%3D%3D

もっともこちらの問答の一人の方は宝珠さんとは真逆で無我に固執するテーラワーダ仏教が好き(とはまた真逆の不二一元論も好き)なようではありますが
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15
667 :神も仏も名無しさん[]:2019/01/12(土) 23:43:43.32 ID:zRb6pzJo
[正しい思考]
「比丘たちよ、このなかで正しい見方が最初にくる。
では、比丘たちよ、どうして正しい見方が最初にくるのか。
誤った思考を誤った思考と知り、正しい思考を正しい思考と知っているとき、その人は正しい見方をしている。
[73]では、比丘たちよ、誤った思考とはなにか。欲をともなった思考、敵意をともなった思考、害意をともなった思考――比丘たちよ、これが誤った思考である。
では、比丘たちよ、正しい思考とはなにか。比丘たちよ、正しい思考もわたしは二つ説く。
比丘たちよ、『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』があり、比丘たちよ、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』がある。
 比丘たちよ、『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』とはなにか。
欲を離れた思考、敵意のない思考、害意のない思考――日これが『徳行のひとつではあるが、結局は[迷いの生存の]下地をつくる、煩悩をともなった正しい思考』である。
では、比丘たちよ、『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』とはなにか。
比丘たちよ、心が神聖で、心に煩悩がなく、聖道に達し、聖道を修めている人の思索、熟考、思案、思いを向け、思いを致し、思いを凝らすこと、言語活動
――比丘たちよ、これが『神聖で、煩悩を離れ、世俗を超越した、聖道に属する正しい思考』である。
 誤った思考を捨てよう、正しい思考を備えようと努力するとき、その人は正しい努力をしている。
注意して誤った思考を捨て、注意して正しい思考を備えているとき、その人は正しい注意をしている。
こうしてこの三つのもの、すなわち、正しい見方、正しい努力、正しい注意が正しい思考につきしたがい、ついてまわる。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=29096929
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践15
668 :神も仏も名無しさん[]:2019/01/12(土) 23:46:58.23 ID:zRb6pzJo
説一切有部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、
我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(ātman)なるものなども存在しない、
故に無我(anātman)である、と無我を理解。

しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、
大きくは二つ、あるいは五つの範疇に分類されるモノが真に実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。

巷間には開口一番「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」だとか
「すべては無自性空である。あれも空だ、これも空だ」などと宣う愚か者があります。

が、説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、
対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としています。
吾人の知覚し、経験する諸々の事象を、端から否定するような態度は取らないのです。

真実(諦/satya)について、その見方によって二つの階層を設定し、そのそれぞれの価値を認めているのです。
そして、そのような真実についての理解の仕方は、その内容とするものこそ相違があるものの、大乗にも引き継がれています。
http://www.horakuji.com/treasures/sarvasthivadin_cetasika.htm


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