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138 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 15:59:30.26 ID:7VlxUlHd - >>132 神も仏も名無しさん 2019/01/12(土) 14:40:37.81 ID:OO+EYVi+
>ユビくん提示の大念住経も読んで見たのだけどね。私が二十年程前に、スリランカの僧侶から聞いた七覚支解説ともかなり違うね。まぁ、今回の大念住経に似たような訳は他にも読んだことがあるけどね。考えて見れば、夢遊病者でもない限り、自分の行動には気づいているよね。 前スレの最後に貼った 大念住経(大念処経 )をちゃんと読んだのですね。えらい。 それから相応部経典の覚支相応も貼って、ちゃんと七覚支が出てきて 、その中の念覚支とは 四念処 であることが書かれていることを示しました。 でその四念処については大念処経を読めばこれは観察のことであると分かるわけです 。 そこであなたがこの経典の訳に疑問を感じようが信じまいが、実はこういう経典があるという事実を見て欲しかったわけです。 というのはあなたはスマナサーラ氏の 念処解説についてあれは彼が勝手に考えたものだろうとしているけれども、 それは大変な侮辱であり、ちゃんと昔からこういう経典があるから経典に根拠のあることを説いているわけです 。 それだけでもわかったんじゃないですか。 それまでの自分の不勉強を恥じるべきです。
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139 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 16:11:27.72 ID:7VlxUlHd - >>132 神も仏も名無しさん 2019/01/12(土) 14:40:37.81 ID:OO+EYVi+
>考えて見れば、夢遊病者でもない限り、自分の行動には気づいているよね。 ところが気が付いているようでいて人間は やはり見落としているのです。 これは大切なことです 私は数ヶ月前 医療安全対策の講習会を聴きに行ったが、そこの講師はヒューマンエラーというものは絶対になくならないものなんだけれども しかしどうしてヒューマンエラーが起きるのかということはこれは全部科学的に解明できると話していた。 そして人間は意識することが大切だと述べていた。意識をそこに置くわけですね 。 ところがやはり意識をそこに置けないミスがある。それがヒューマンエラーです 。 その原因が例えば寝不足で疲れていたとか 、悩みがあったり、多忙で一度にあれこれやって注意力が散漫であったとかそういったことです。 だから本当に意識をそこにおいて注意し続けるということが実は一番大切な話なんです。 だからこれはよく書く話だけれども 、桐山さんはこの四念処をやっていたのであれば、常に自分の行動を観察できていたはずだ 。 ところが例祭の最中おばちゃん信者に嘘つきと言われた。 もちろんこのおばちゃん信者に対して 注意を与えてたしなめる必要があります 。 しかし桐山さんのそれはたしなめるなんてものではなくもう怒り狂っていた。 自分を見失うほど 。 これはやっぱりどんな時であれ 自分の言動について注意をするという修行がされていない証拠ですよ。 修行していればもう少し賢い対応をしますよ。 私はあの怒鳴り散らして 言葉の暴力 強制退去という暴力にしか訴えられないというのは賢明とは思えません。 愚かだと思う。 つまり桐山さんの四念処の修行なんてその程度のものだったのです。
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141 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 16:13:02.61 ID:7VlxUlHd - >>140
いいところに出てきましたね 。 後でレスをします と言うか あなたの存在を使います。
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142 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 16:20:30.52 ID:7VlxUlHd - >>133 神も仏も名無しさん 2019/01/12(土) 14:49:44.35 ID:OO+EYVi+
>桐山新書の念覚支解説は、念を強めることと四念処観修行の二つとしているね。これは輪廻する葦本の七覚支解説とほぼ同じです。輪廻する葦本にも七道品経が提示されているから、ユビくんは確かめてみなさいよ。四念処の結論は、空観を悟ることだから桐山解説で善しだね。 実は今回の 七覚支に関する経典の桐山解説の批判の中で書き忘れたのだが、桐山さんは四念処を四念処観と言う 瞑想としたわけだが、 そこに貫かれている不浄観を否定しましたね。 浄不浄というのはおかしい。 物事は空なんだと大乗の般若思想に基づきました。 でもこれっておかしいですよ 。 やはり 原始仏教では 一切皆苦で全てを見るのが 大切なことであり、 不浄であると見るのが 大切な話なんです 。 だからこそ 執着も捨てることができるわけなんです 。 だからここで般若空をの立場に立つというのが 随分おかしな反応なんですね。 阿含経を批判したいのか。
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143 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 16:29:33.12 ID:7VlxUlHd - >>134 神も仏も名無しさん 2019/01/12(土) 14:58:33.07 ID:OO+EYVi+
>ユビくんは、念を強める、を大げさに考えているのでは?気づきの瞑想だって、注意力は必要でしょ。ボーと観察するのでなく、注意力集中力を強めることは必要なのでは。別に力んだりしないでさ、肩の力は抜いてさ。その延長線上に念力ゴマあっても悪くないでしょ。 などともっともらしいことを言っても駄目です。 桐山さんの解説は知情意の 全てにおいてその力を強めるなどと書いている。 これではまず目の前にあることに 注意を集中する ということに気がつきませんよ。 だからキーワードは観察です。 観察という言葉が一言もなく解説されているというのは、 この経典のと言うか念処の何たるかが分かっていないんですよ。 とにかく 桐山さんは四念処を解説したいと思ったら大念処経などに書いてあるその経典を読んで、 その内容を手短でいいから示すことです。その上でこれは強いものでなければならないなどと書かねばならないのです。 それが経典の根拠も示すことなく、仏教大辞典から思いを平らかにする 、そこしか読んでいないじゃないですか。 そして自分の修行体験などとほざくが、自分の修行体験の前にまず経典ではこのように説かれている ということを書きなさいと言いたい。 でも読んでないから無理なんですね。
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144 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 16:34:59.22 ID:7VlxUlHd - >>137 神も仏も名無しさん 2019/01/12(土) 15:24:08.23 ID:OO+EYVi+
>しかしね、ユビくん提示のネットの大念住経の訳など、どこまで信用出来るのだろう?中村元師や増谷文雄師やその他高名な学者先生の阿含経訳に、なぜ気づきの瞑想法がないのかね?ユビくん説を聞かせてたもれ。 今回は書籍からの引用でなくネットで拾えるものをあえて示しました。 そうしないとあなたは読まないですからね。 まあそれも読まないと思ったのだが、読んでくれたのだからえらいものだとしたわけですが 。 だからこれ以外にもちゃんと春秋社の原始仏典の第2巻にも大念処経が載ってますよ。 ちなみに中村元博士も編著 のものです。 また片山一良訳のパーリ仏典もありますし 、スマナサーラ師来年大念処経も書籍としても売られています。 だからご自分で調べてみてはどうですか 。 それよりもそちらこそ念を強くすると 書かれた経典があるんですか? ちなみに桐山さんは修行体験としか書いてませんが。
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145 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 16:42:37.18 ID:7VlxUlHd - ところでヨル公さんから止息経のことが話に出されましたので、私は>>128に止息経の原文(書き下し文)を貼って示しました 。
これが雑阿含経止息経の書き下し文訳の全文です。 今回の桐山さんの新著にもあるように雑阿含経というのは本当に短い経典を集めたものですからね。あのぐらいの長さです 。 そこでヨル公さんがこれは表面意識、潜在意識、深層意識 のことについても その四つの止息が関係していると あなたは理解したのだそうだ。 だったらあなたの理解をもとに この原文から 意訳でも構わないから 示してみなさいと言いたい。
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146 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 16:50:29.39 ID:7VlxUlHd - そして桐山さんは止息経の止息法とは4種類の特殊な呼吸法だとしました 。もちろん単なる呼吸法ではなく呼吸も用いた 禅定瞑想法だと したわけですね 。
笑える話なんですが 。 そこで>>140の 宝生創価さんの出番です。 宝生創価さんは>>140にも書かれてあるように現存する阿含経には具体的な修行法が書いていない、分からないと 彼は言っている。 そこで止息経が4種類の特殊な呼吸法について示されたものだとすると、ますます分からないんじゃないですか 。 勝止息、奇特止息、上止息、無上止息という単語だけですよ。 この単語だけでどうして具体的な呼吸法がわかるのか? しかも原文はあそこに書いてある通りです 。 これだと 宝生創価さんが言うように具体的には何をどうしたらいいのかなんて実は何も分からないことになってしまいます。
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148 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 17:20:38.67 ID:7VlxUlHd - ところが>>128に示した止息経について解説すると、まず九次第の各禅定においてこうした止息が可能であると書いています。
ちなみに止息とは息を止めるだの呼吸とは全然関係ありません。 この場合の息とは休息とか息災とか使われるように、止と同じように、止める、やめるという意味があります。 つまり止息とはとめる、やめる、なくすという意味があるわけです。 九次第の禅定によってこういったものを 停止させていく力があると示すわけですね。 その中には出入息というこれは文字通り呼吸のことですが、 呼吸を止めると言うか 調整制御することも入っています。 しかし一番最後に貪欲心に於いての解脱 、恚癡心に於いての解脱を示します、つまり、貪瞋癡の 煩悩からの解脱こそ、 勝れた止息であり、奇特な止息であり、上なる止息であり、無上なる止息 であると四つの形容詞で 賛嘆したものです。 そして一番最後に、 「諸の餘の止息に過上なる者無し」と名づくとありますが、これはこの四つの形容詞で表現した 貪瞋癡の煩悩をなくす止息に比べて、 これを過ぎたる上の物は無いとしたわけです。 つまり先に述べた九次第定の禅定においてと言うか、可能な止息効果よりも、 貪瞋痴の煩悩をなくすことが第一なんだぞ と いつも説く教えを述べた経典です。 これのどこが4種類の呼吸法なのか? また具体的な修行法としては、煩悩をどうやって止息していくかということは経典全体で 書かれていることなんだから、 それを実践すればよく 、4種類の呼吸法などと言う 実際には具体的に何も示されていない呼吸法なんか考える必要もないのです。
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150 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 17:24:22.62 ID:7VlxUlHd - >>147 神も仏も名無しさん 2019/01/12(土) 17:15:08.60 ID:OO+EYVi+
>一言で言うと、勝止息・無上止息などは、最上級の瞑想法で、深層意識の煩悩を滅してしまう。ここまで到達出来ない修行者は、禅定を出ると煩悩が戻ってしまうわけだ。ウッダカ仙人は解脱までもう一歩だったわけだ。禅定を出ると煩悩が戻ることは経典を読めば分かるね。 おっ、煩悩を滅してしまうと書きましたね。 つまり止息とは とめる、やめる、なくすということで、何をなくすか滅するかと言うと、煩悩だという こちらの主張とそこだけは一致したわけですよね。 桐山さんが示した4種類の呼吸法ではないとあなたも認めたわけだ。
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152 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 17:31:43.07 ID:7VlxUlHd - >>149 神も仏も名無しさん 2019/01/12(土) 17:22:44.48 ID:OO+EYVi+
>例えば第四禅定は、心が清浄、安定、煩悩無く、とかだ。経によって表現が少し違うだけで内容は同じだ。だいたい煩悩があったら心が清浄安定なわけがない。しかし、この状態は禅定に入っているときの一時的なものだ。だから大解脱ではない。 だから書いたでしょ ? 桐山さんの示す大解脱と小解脱の区別というのはそんな話ではない。 桐山さんは煩悩をなくしただけでは小解脱だとしたのです。 本煩悩をなくすだけではダメで、例えば身体の病気がなく健全になったり、運命が改善されたりとかそういうことがなければ 大解脱とは言わないとしたのです 。 禅定から 覚めたら煩悩が戻るとかそういう話ではなく、常日頃から煩悩をなくした状態でもそれだけでは足りないとしたのです。 だから阿羅漢果とは十結煩悩を全て断った人ですよね。でも十結というのは所詮煩悩に過ぎないから、 十結煩悩を全て断った阿羅漢果も小解脱だと桐山さんは言ったことになります。
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154 :ユビキタス ◆Pwwkr6/7qicR [sage]:2019/01/12(土) 19:50:34.56 ID:7VlxUlHd - >>153 神も仏も名無しさん 2019/01/12(土) 17:39:51.07 ID:OO+EYVi+
>安般念経の桐山解説は、細かい説明を省いて、一気に本質に迫ったものだと思う。安般念経の、有覚有観寂滅純一、の語だけで、これは九次第定の初禅から滅尽定まで表していると、私クラスでも分かる。桐山師の手法は一気に本質に迫ったものだね。 それは結局、安那般那念についてわかっていないということではないか? 私が>>128に 貼った止息経も 寂滅止息と しているが、寂滅=止息だとわかる。 九次第定の9番目の想受滅は想受寂滅であり、 そして九次第定全体を 「是れを漸次に諸の行寂滅すと名づく」 と表現している。 その後に 貪瞋癡の煩悩の解脱を 「是れを勝止息・奇特止息・上止息・無上止息にして、諸の餘の止息に過上なる者無しと名づく」 と表現している。 つまりこの経典の文章構成は九次第にの行の寂滅止息の価値と、貪瞋癡の煩悩を解脱する寂滅止息の価値を対比したものと分かります。 そして後からのべたら貪瞋痴の煩悩の止息の方をこれ以上のものはないと 比較したわけです 。 だから九次第定に全く価値がないというわけではないが、 求めるのはそこでないということです。 あなたの言うように安那般那念経が九次第定を説くのであればウッダカ仙人の 禅定瞑想になってしまいます。 そうではなく九次第定とはまた別の視点の寂滅があるのだと そう見るべきですね。 ちなみに寂滅というのは煩悩から離れた悟りの境地と言う 仏教用語でもあるわけです。 それにはこういう対比構造も用語成立 に くみした面もあると見るべきです。 今日深山さんが指摘したように、あなたは漢文を書き下し文どころかそのまま引用する癖がある。 でもこれって内容もよく分からずにただ単語を並べているとしか私には見えませんよ 。 こういう風に分析的な に考えねばならないのです。 あなたはただ単純に漢文の単語を読んでみて、反応してるだけで、わかったような気になってるだけです。 そしてその実何もわかっていない。 だから漢文の単語を誰にでもわかる、説明できる自分の言葉にしてみるという努力が必要です。 そうでないと仏教は理解できません。
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