- 阿含宗という宗教298
729 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2018/12/08(土) 10:31:52.84 ID:6hsJZQC9 - >>696探究者2018/12/06(木) 20:26:29.64ID:HUgWcxqn
>私は1年ほど友人達と議論してますが、少し >諦めてきました。 期待せずに努力してはどうでしょうか。 私も似たような経験を持っています。 この人なら桐山さんのインチキぶりを理解するのではないと何度か話したら、 後で私を「ゲイカの悪口を言っている」と周囲に話しているのを聞いて、驚きました。 しかし、少数ではあるが、こちらの話を聞いて、やめた人もいます。 つまり、私の予想とは違った反応でした。 人によって、信仰の理由が違うことが大きな理由でしょう。 1.5来補さん、宝生創価さん、ペテン大作さんの三人組が 必ずしも極端な例ではありません。 知性で信仰している人なら教義のデタラメさに敏感だろうし、 桐山さんの食欲や性欲など欲望丸出しに嫌悪する人もいます。 逆にこの三人のように知性も感性も鈍い人には何を示しても無駄です。 1.5来補さんに「預流向=聖者」の証拠をこれだけ示しても、 まだこれを否定して、嘲笑っている。(>>726-728) 桐山さんが「朽木えるべからず」を引用して、腐った木は彫ることが できない、という例えをしたように、三人組のような信者はいくらでもいます。
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730 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2018/12/08(土) 10:38:05.97 ID:6hsJZQC9 - >>696探究者2018/12/06(木) 20:26:29.64ID:HUgWcxqn
>私は1年ほど友人達と議論してますが、少し >諦めてきました。 釈尊の話として有名なのが、悟りを開いた直後の梵天勧請です。 釈尊は、煩悩にまみれたままの人々に法を説いても疲労で報いられるだけだから、 説かないと決心しました。 しかし、梵天は、ハスの花に例えて、法を説かなければ泥に埋もれたままだが、 法を説けば泥から出て花を咲かせる者もいると説得しました。 これは仏教徒の心構えみたいなもので、機会があるなら、 ダメモトで話をしてみるという考えです。 ハスの例えは非常に良くできていて、大乗仏教のような衆生救済なんて 荒唐無稽な話とは逆で、話をしても反応する人は少数だという意味です。 探究者さんが話をすれば、十人のうち九人までは聞く耳を持たなくても、 一人は聞いてくれるかもしれないし、すぐに反応しなくても、 種が発芽するように、時間をかけて理解するかもしれません。 信者全員が三人組のように、額に無知を、鼻先に慢心を、 口に嘘と妄想を貼りつけたような恥知らずだけではないということです。
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731 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2018/12/08(土) 10:44:02.32 ID:6hsJZQC9 - >>696探究者2018/12/06(木) 20:26:29.64ID:HUgWcxqn
>私は1年ほど友人達と議論してますが、少し >諦めてきました。 釈尊に説かれてさえも反応しなかった人たちがいたのだから、 ましてや我々が何か話しても、聞く耳を持たないのは当たり前でしょう。 釈尊に反逆した弟子でデーヴァダッタがいます。 後に誰かが釈尊に、デーヴァダッタを救えなかったではないという 批判ともとれる質問をしています。 これに対する釈尊は、あらゆる手を尽くしたが、 彼自身は取り付く島がなかったと述べています。 これは恐ろしい返事で、つまり、世の中には釈尊と言えども どうにもできない人間がいるのだという意味です。 この点、後の大乗仏教やキリスト教では神仏が助けてくれる、いわゆる 「救い」があるが、釈尊の説いた輪廻の世界観は非情、無情で、 救いなどありません。 宝生創価さんが救いを連発するが、釈迦仏教には彼の求めるような 救いなどありません。 為した行為はそのまま自分に返ってくるというのだから、神に許しを 請えばなんとかなるキリスト教とは違い、「救い」はありません。 梵天の例えにある泥の中に入ったハスは、そのままだというのです。 自分で必死に考えてやらないと、誰も助けてはくれない。 釈尊でさえ助けてくれないのだから、ましてや桐山さんなどあてに していたら、彼の後を追い、三悪道を輪廻するだけです。
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732 :深山 ◆lDoupiXSYZNC []:2018/12/08(土) 10:50:46.15 ID:6hsJZQC9 - 「浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない」
(『真理のことば・感興のことば』中村元、33頁) 「わたくしは世間におけるいかなる疑惑者も解脱させ得ないであろう。」 (『ブッダのことば』中村元、224頁) 三人組が典型で、目の前に本物の仏教を示されても、 侮蔑し、ツバを吐き掛け、釈尊その人さえも罵倒する。 1.5来補さんはどんな証拠を出されても「預流向≠聖者」だと、預流向と いう聖者を罵倒し続け、悪業貯金を積み続けるでしょう。(>>726-728) ペテン大作さんは超能力で欲望を満たすことや、 相手を憎み復讐することしか興味がない。 宝生創価さんは慢心と妄想の膿の中で泳いでいるだけです。 この三人を例外として見るのではなく、これが普通の信者なのだと思えば、 探究者さんの周囲の信者の反応も理解できます。 一般の人たちと違い、阿含経という釈尊直説の経典を目の前に示されながら、 それとはまったく違う阿含宗にしがみつき、その間違いを指摘されても 断固として拒絶して、阿含宗という泥の中に留まるというのだから、 「各自のことがらである」。 私の批判もそうだが、ユビキタスさんが桐山さんの阿含経講義の批判をしているのは、 一人くらいはインチキ講義に気が付き、阿含宗の信仰に疑問を持つのでは ないかと期待しているからでしょう。 逆に言えば、大半の信者にはたぶん無理です。
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